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第12回 西洋料理 《精養軒》

上野や東京駅八重洲南口にある上野精養軒は、1872年(明治5年)、丸の内の馬場先門に建てられました。ところが建築直後、銀座の大火で類焼してしまったのです。 精養軒を始めた北村重威という人は文政2年生まれといいますから、この時す...

第13回 フランスパンの“チャリ舎”

「日本洋菓子史」における"チャリ舎"のチャリヘスの記述はわずか2行ですが、チャーリー・ヘス(Carl Jacob Hess)は、日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる人物です。本名はカール・ヤコブ・ヘス。英語読みのチ...

第14回 西洋菓子 《村上開新堂》

明治に入り、"南蛮菓子"から"西洋菓子"の時代となりました。 日本で初めての洋菓子専門店といえば、村上開新堂でしょう。村上開新堂初代の村上光保氏が麹町山元町でフランス菓子の製造販売を始めたのは1874年(明治7年)のことでした...

第15回 東京“西洋グルメ・ガイド”

1873年(明治6年)になると東京でも西洋の食品を売る店や料理店が営業をしていました。 10月に発行された「新聞雑誌」第156号には"東京グルメ・ガイド"ともいうべき記事が掲載されています。西洋料理なら釆女町の西洋軒(当初は西...

第16回 「万宝珍書」にみるケーキの作り方

1873年(明治6年)、須藤時一郎という人が「万宝珍書」を著しました。 須藤時一郎は1863年(文久3年)、幕府の遣欧使節の池田筑後の守に随行してフランスに行き、ナポレオンIII世にも謁見したという人物でした。明治維新後は英語の教師を...

第17回 西洋菓子 ~凮月堂~

明治政府は産業を興す政策の1つとして、1877年(明治10年)8月21日、第1回内国勧業博覧会を開きました。お菓子の部門ではコンペイトウ、カステラなどに混じってパン、菓子パン、ビスケットなども出品されました。 この博覧会で南伝...

第18回 乾蒸餅とは?

博覧会に出品された洋風のお菓子にすべて漢字が当てられたのは博覧会の主催者の判断でした。 麺包(パン)、卵麺包(タマゴイリパン)、兵糧麺包、乾蒸餅(ビスケット)、糖被框実(コロモガケカヤノミ)、開花饅頭など漢字の表現に苦心のあとが伺えま...

第19回 デセールがプティ・フール・セック?

その頃、内国勧業博覧会で菓子は農産物に分類されていました。1890年(明治23年)に開かれた第3回内国勧業博覧会の審査官、田中芳男氏は菓子の振興策として"菓子唱歌"なるものを発表しました。 メロディーは不明で主として和菓子に関...

第20回 函館の洋菓子

1890年(明治23年)に開かれた第3回内国勧業博覧会で有効賞3等を受賞した中村作兵衛氏は函館の人でした。 函館は横浜、長崎と同様、1859年(安政6年)に開港しました。開港によって米国、ロシア、英国、フランス、中国など各国の...

第21回 欧米菓子修業

日本で初めて本場ヨーロッパでお菓子作りの修業をした人といえば、両國若松町の米津松造氏の息子、恒次郎氏でしょう。 恒次郎氏は1884年(明治17年)18歳の時、米国に旅立ち、エレメンタリー・スクールに入学しました。まず小学校に入...
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