第14回 西洋菓子 《村上開新堂》

鹿鳴館時代の村上開新堂製菓の1部:鍋島古舟画

鹿鳴館時代の村上開新堂製菓の1部:鍋島古舟画

明治に入り、”南蛮菓子”から”西洋菓子”の時代となりました。

日本で初めての洋菓子専門店といえば、村上開新堂でしょう。村上開新堂初代の村上光保氏が麹町山元町でフランス菓子の製造販売を始めたのは1874年(明治7年)のことでした。村上光保氏は1837年といいますから天保8年、京都の生まれでした。京都御所に出仕し、文明開化の流れの中、饗宴用のフランス菓子を作ることになりました。

村上光保氏は在官のまま、1870年(明治3年)、横浜85番館のフランス人サミュエル・ペール(※)に就いて高級洋菓子の教えを受けることになりました。3年後、宮廷に戻って大膳職として修得したフランス菓子の腕をふるっていましたが、そのうち、宮廷内だけでなく、広く一般にも洋菓子を普及することになったのです。

村上光保氏の作る”ガトー”や”プチ・フール”は皇族・華族・富豪たちに大好評で、特に宴会用のデコレーションケーキは政府関係者に喜ばれました。鹿鳴館での催しのさい、洋菓子の製造を受け持ったのも開新堂の村上光保氏でした。

当時、洋菓子を作っていたのはこうした先駆的な人だけではありませんでした。大使館のコックさんたちも明治初期、日本に洋菓子を伝えるのに大いに貢献しました。村上開新堂の二郎氏は「だいたい洋菓子なんて大使館のコックさんの方がうまく、英国大使館の”竹辺という女”がメレンゲはこうして焼かなくて駄目だ」と言ったとか「シャーロットやヌガーなどコックさんから菓子屋が教わっているのです」といった話を披露しています。料理の世界からお菓子屋さんに伝えられたものも多かったようです。

※サミュエル・ペールは横浜84番館でホテルを、85番館で洋菓子を経営し、1883年(明治16年)帰国した。

タイトルとURLをコピーしました