その昔、日本でチョコレートを食べたのはどんな人だったのでしょうか?記録に残る名前では長崎丸山の“筑後屋平右衛門”やそのお抱え遊女大和路をあげることができます。1797(寛政9)年の長崎丸山の遊女の貰い品目録に”こおひ豆”1箱と共に“しょくらあと6つ”と記されています。
1873年(明治6年)、特命全権大使岩倉具視の一行がヨーロッパを視察した際、彼らはフランスでチョコレート工場を見学、リオンでもチョコレートを食べたと記録されています。
日本で初めてチョコレートを加工して販売したのは東京日本橋區若松町 両國 米津松造だといわれています。彼は1878(明治11)年12月24日の「かなよみ新聞」にチョコレートの広告を出しました。この頃、チョコレートは猪口令糖、貯古齢糖、知古辣、千代古令糖などと書き、カカオは甘豆餅と表記していました。
明治30年代にはキャドバリー、メニエル、ピーター、フライといった輸入チョコレートを東京銀座などごく一部の店で手に入れることができましたが、一般の人には無縁のお菓子だったようです。「牛肉を食べると角が生える」といった迷信に惑わされ、チョコレートには牛の血が混じっているといった虚言がまことしやかに囁かれていた時代です。その上高価でした。10銭で大福もちやあんパンが10~15個も買えたのに対しチョコレートはメニエルの小さい箱1つしか買えませんでした。
1899(明治32)年に森永太一郎氏が創業した森永商店は、原料チョコレートを輸入してクリーム・チョコレートの製造を始め、1909(明治42)年には板チョコレートの製造も始めました。翌年には日米堂芥河商店の洋造氏が米国で学んだチョコレートの製造技術をもってチョコレート、キャンデー類の製造を始めました。しかし、宣伝しても売れ行きに直結せず、パイオニアたちは苦しい戦いを続けていました。
一般に普及し始めたのは1918(大正7)年、森永製菓がカカオの豆から一貫して工業的に生産するようになってからです。1926(大正15)年には明治製菓もチョコレートの製造を始め、生産量も一気に増えました。と同時に質も向上し、チョコレートは日本人になじみ深いお菓子となっていきました。
参考文献:ガトー1980年1・2月号「チョコレートの話 1・2・3」日新化工株式会社技術課:石山茂樹/「日本洋菓子史」池田文痴菴(一般社団法人日本洋菓子協会)/日本チョコレート・ココア協会ホームページ