第30回 内田新八氏の絞りの技術

第30回 内田新八氏の絞りの技術

内田新八氏は内田式アートパイピングの絞り方を確立した方として日本の洋菓子史に名を残しています。

内田氏は1924年(大正13年)、森永製菓に入社し、ピース、チョコレート、ドロップスの部署を歴任しました。ある時、ドロップの破片で右の親指を負傷し、この怪我がきっかけでベーカー部に移りました。当時、森永ベーカー部には3名の職人と女子工員数名、内田氏を含めた2名が助手を務めていました。この頃、内田氏はハーモニカに熱中、一方で肖像画を描くのを趣味としており、社長の森永太一郎氏の肖像画を描いたこともありました。この時期に内田氏は洋菓子のデコレーションに興味を抱き、後にベーカー・デザイナーとして独立する基礎を築きました。

戦時中は配給の規格菓子ばかり作り、そのうち従業員が応召されたり徴用されたりして作る人がいなくなってしまいました。終戦直前から宮城県の気仙沼水産工場に異動になり、全く畑違いの仕事をすることになりましたが、水産加工の仕事も思うように無かったといいます。

終戦になって世間では闇買いで洋菓子を作り始めました。しかし、森永は絶対にヤミをしなかったので依然として仕事がない状況が続きました。他の工場では歯磨きや靴墨、頬紅や口紅を作っていたのだそうです。そのうちコッペパン製造の委託をうけましたが、洋菓子の製造までは至りませんでした。

東京に戻りたいと思っていましたが、「都会転入」も許されなかったといいますから、自由に転居もできなかったようです。1946年(昭和21年)、森永を退社した内田氏は進駐軍仙台のPXで絞り袋を絵筆に替えてアーティストとして勤務、横浜のPXに移ってからはディスプレー部に所属しました。

そうこうするうちに京浜地区には洋菓子が出始めました。内田氏はこれまでの経験を生かして“絵と菓子の結合”を目指す新しい分野に取り組むことを決意しました。

写真の製品は1934年(昭和9年)の新年のデコレーションケーキ、同時期と思われるクリスマス・ケーキです。内田式パイピングの特徴は効率よく、芸術的な作品をケーキ上に表現して、商品の付加価値を高めるところにあります。そのデザインは時代を超えて今なお、新鮮な輝きを放っています。

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