一般社団法人日本洋菓子協会連合会の前身、「日本洋菓技術協会」創設時のメンバーの1人である木村吉隆氏は、1915年(大正4年)に京橋南鍋町の米津_月堂に見習いとして住み込み、修業に励んでいました。木村氏は洋菓子の未来を信じていましたが、一方で洋菓子の普及が遅々として進まないことに先行きの不安も感じていたようです。
こうした状況を背景に、1922年(大正11年)頃から、”菓工会”、”菓友会”というグループが生まれていました。グループは品評会を開催し、会報を発行しました。こうした活動を通して、大正時代の終わりから昭和時代の初めにかけて『洋菓子言論界』が形成され、『洋菓子言論家』ともいうべき業界のリーダーが育っていきました。
東京・九段下の国粋製菓で洋菓子部職長をしていた川村秀氏も閉鎖的な業界の性格に将来を憂えていた一人でした。「洋菓子界は_月堂系、精養軒系、東洋軒系などの伝統閥があり、交流が実に至難。これは我が洋菓子発展上に障害あり」と考えていました。
そこで川村氏は仮に”日本洋菓子技術者同志会”と命名して業界に働く人々に会の設立を呼びかけました。この呼びかけに応じた技術者たちは、1930年(昭和5年)9月15日、“洋菓親睦会”として初めての顔合わせ会を芝・田村町の飛行館で開きました。当初、なかなか足並みが揃いませんでしたが、それでも会費10銭で“洋菓倶楽部”が発足、製品持ちより会を行ったりしていました。1931年(昭和6年)には初めての会誌も発行しました。
その後、この親睦団体“洋菓倶楽部”は“日本洋菓倶楽部”として会報「洋菓」を発行、「洋菓」は砂糖が統制された1940年(昭和15年)まで発行されました。「洋菓」には洋書を翻訳したレシピやメンバー提供のレシピ、原材料の情報が掲載されています。
書店に料理専門書、製菓専門書のコーナーが設けられている現在では想像もつきませんが、その昔、製菓技術の専門書は限られていました。そもそもレシピは店の知的財産、代々受け継がれるものであり、おおっぴらに人に教えたりするものではなかったからです。“日本洋菓倶楽部”のメンバーは会報誌「洋菓」で、この業界のタブーに挑戦しました。その勇気と信念は、その後、洋菓子業界が大きく花開く礎となりました。