フランスから帰国後、門倉國輝氏は1924年(大正13年)、大森で純仏蘭西菓子の製造販売を始めました。1929年(昭和4年)には銀座6丁目の角に銀座コロンバンを開きました。銀座コロンバンには当時日本で唯一といえるものがいくつもありました。冷房装置が設置され、ケーキは冷房ケースに飾って販売されました。クラシックな2階のサロンはひときわゴージャスでした。あの藤田嗣治画伯の天井画6枚が描かれていたのです。この藤田嗣治画伯の天井壁画は今、迎賓館に納められています。1975年(昭和50年)、門倉氏が迎賓館に寄贈したのです。
1937年(昭和12年)に、名古屋松坂屋の東西名物街に名古屋支店を開いた際は、東郷青児画伯に壁画を依頼しました。門倉氏はパリでの修業時代、俳優の早川雪舟や画家たちと交流し、芸術への造詣を深めました。本物、一流志向こそ銀座コロンバンの経営理念でした。
戦時中は物価が統制され、砂糖は配給停止、銀座コロンバンも休業せざるを得ませんでした。戦争が終わり、銀座コロンバンも再開しました。1948年(昭和23年)には株式会社コロンバンに組織を変更し、事業を拡大していきました。
その1つに1951年(昭和26年)の渋谷・東横のれん街への出店があります。ここに「洋菓子の実演室を設く」、つまりデモンストレーションを行って実演販売したのです。製造現場を公開する演出で消費者をひきつけ、今のデパ地下の活気と賑わい生みました。工場を各地に建設して生産態勢を整え、全国のデパート、駅ビル等に売店を設け、コロンバンは全国的なブランドに成長、定着しました。
門倉國輝氏は事業の発展と同時に事業を取り巻く環境の整備にも心を砕きました。”扇友会”[1911年(明治44年)]や”菓友会”[1922年(大正11年)]を創設して業界人の組織化に務めたり、地域活動にも情熱を注ぎました。その1つが、銀座の電柱を撤廃する運動でした。林立する銀座の電柱、張り巡らされた電線が、パリで若い日々を過ごした門倉氏の美意識にそぐわなかったのは容易に想像できます。さらに日仏親善のため巴里会を創立してキャトーズ・ジュイエを7月14日に開催することにも力を尽くしました。門倉氏はこうした運動を、長期的な見通しをもって戦前から既に行っていたのです。
門倉國輝氏に教えを受け、その影響を受けた洋菓子業界の人々は数知れません。当会も門倉國輝氏を名誉会長に戴き、門倉氏の歩みから業界人のあるべき姿を学んできました。
参考文献:門倉國輝翁88年のあゆみ(門倉國輝翁の米寿を祝う会)