1900年代に入ると日本の洋菓子の歴史を語る上で欠かせないもう1人の人物が登場します。それは銀座コロンバンを創設した門倉國輝氏です。
門倉國輝氏は1893年(明治26年)に生まれ、1904年(明治37年)11歳で横浜の米津_月堂に入り洋菓子製造の見習いとなりました。
見習いをしながら中学校に通い、1907年(明治40年)、15歳の時に三田の東洋軒に移ってフランス料理やフランス菓子の修業を続けました。17歳の門倉青年は、すでに製菓部次長として一目置かれる存在でした。
1915年(大正4年)から1918年(大正7年)まで門倉氏は宮内省の大膳寮員を拝命し、大正天皇にお菓子やアイスクリーム、お料理を作って差し上げていました。宮内省には東洋軒出身の「天皇の料理番」、秋山徳藏氏が勤めていました。摂政官がイギリスに行った時、秋山氏も司厨長として同行することになりました。門倉氏はこの時三田東洋軒の製菓部長を勤めていましたが、東洋軒の社長に頼み込み、秋山氏を追うようにヨーロッパへ渡りました。時に1921年(大正10年)8月、29歳の時でした。
門倉國輝氏は日本郵船の賀茂丸で渡欧し、パリではホテル・マジェスチックに泊まりました。ホテル・マジェスチックは日本の皇族や貴族が泊まる一流ホテルでした。このホテルで料理菓子、あめ細工、グラス等を学び、リュ・カンボ通りにある著名店、コロンバンで修業を始めました。ホテル・マジェスチックからコロンバンに通勤、修業した門倉氏はこの時日本の業界を背負って立つという気概に溢れていたに違いありません。
コロンバンで門倉氏が見たものは攪拌機、アーモンドの皮剥き機、ブドウの種抜き機、シュークリームの種つくり機、チョコレート型抜き機など最新の製菓用機器でした。
門倉氏はこうした機器を購入して東京での仕事のプランを練りながら1922年(大正11年)春、勇んで帰国しました。その時、購入した機器の1つが写真のミキサーです。
ミキサーの無い時代、卵を泡立てるのは大変な作業でした。クリスマスの頃など1日中泡立てているうちにうっ血して腕が腫れ上がったなどという昔話(といっても1950年(昭和25年)の話です)もありますから、ミキサーの登場がお菓子作りにどれほど朗報だったかがわかります。
機械化の利点をいち早く察知し、導入した門倉氏はやはり先見の明のある傑物でした。
参考文献:門倉國輝翁88年のあゆみ(門倉國輝翁の米寿を祝う会)