第20回 函館の洋菓子

西洋菓子商 東洋堂中村作兵衛の店。「SREAC CAKEとはロシア語のSlatki、スラーキー、甘味を意味するように思われる」と池田文痴菴氏は推測している。

西洋菓子商 東洋堂中村作兵衛の店。「SREAC CAKEとはロシア語のSlatki、スラーキー、甘味を意味するように思われる」と池田文痴菴氏は推測している。

1890年(明治23年)に開かれた第3回内国勧業博覧会で有効賞3等を受賞した中村作兵衛氏は函館の人でした。

函館は横浜、長崎と同様、1859年(安政6年)に開港しました。開港によって米国、ロシア、英国、フランス、中国など各国の領事や商人などが函館に集まるようになり、各国の文化が流入しました。函館には今も、当時の面影を残す旧ロシア領事館や旧イギリス領事館、教会などの異国情緒溢れる建造物がそこかしこに残っています。

函館はまた、新政府の重要な政策の1つ、北海道開拓の拠点でもありました。開拓使には外国人が雇われ、札幌農学校の教頭を務めた”ボーイズ、ビー・アンビシャス”で有名なウイリアム・S.・クラーク博士もその1人です。北海道の開拓は函館、札幌、小樽を中心に全道へと広がっていきました。

明治初期から函館に外国の食文化が育っていたのは、函館新聞の広告からもよく分かります。函館新聞には西洋料理の開成軒が1873年(明治6年)から営業しているという広告の記録があるそうです。1881年(明治14年)には西洋パン、西洋饅頭、外国人ホテル開業、1882年(明治15年)にはアイスクリームの広告が掲載されたといいます。

1894年(明治27年)の便覧には西洋料理の五島軒が登場していますし、1901年(明治34年)の函館案内の英文の説明には、今は老舗ともいえる西洋菓子各種販売商の精養軒、和洋菓子製造卸小売りの千秋庵も紹介されています。

函館の元町の坂の頂きから港を見下ろすと、1854年(安政元年)に米国のペリー提督が来航して以来の函館の歴史が今に蘇ってくるようです。

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