「日本洋菓子史」における”チャリ舎”のチャリヘスの記述はわずか2行ですが、チャーリー・ヘス(Carl Jacob Hess)は、日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる人物です。本名はカール・ヤコブ・ヘス。英語読みのチャーリー・ジェイコブ・ヘスを短くしてチャリヘスと親しみを込めて呼ばれていました。
彼は一体どのような人物だったのでしょうか。ヘス夫妻のお孫さん(夫妻は実子に恵まれず養子縁組をした)の証言によると、彼はスイスのチューリッヒに生まれ、パリで修業し、パイを作るのが得意だったそうです。その後、上海に移り、1869年(明治2年)頃、神戸へやってきました。
彼はおよしさんという女性と結婚し、横浜関内居留地のコンフェクショナリー、ポワトヴァンという人のところで働きました。築地精養軒が開業すると1872年(明治5年)、ヘッドハンティングされたのです。この年、不運なことに、ヘス氏は開通したばかりの新橋・横浜間の鉄道で汽車から落ちて片腕を失ってしまいました。
そうした不運をものともせず、1874年(明治7年)には、東京・築地でフランスパンや食パン、各種清涼飲料水(炭酸水)の製造販売の店を始めました。これが”チャリ舎”です。
お孫さんによれば”チャリ舎”のパンの特徴は「独自の酵母と、カナダ産の小麦粉を使っていた」ことにありました。京橋の小田原町にあった”チャリ舎”は、ヨーロッパの街で見かけるようなエキゾチックな作りで、銀座でもひときわモダンでハイカラだったようです。”チャリ舎”は日本人の後継者に引き継がれ、明治・大正・昭和の初めまでフランスパンのベーカリーとして親しまれていました。
チャーリー・ヘスは1897年(明治30年)、東京で亡くなりました。病院のベッドで彼は「ちりめんの浴衣と入船堂の塩煎餅とおよしさんがいて、日本に来て本当に良かった」と言って眠りについたといいます。彼の製パン技術は”チャリ舎”の名前ととも日本の業界に永遠に刻まれています。
参考文献:一般社団法人日本ホテル協会発行「HOTEL REVIEW」[外国人居留地比較研究グループ]