第9回 餡パンの木村屋

「東京・銀座木村屋の旧店舗」 (都新聞)

「東京・銀座木村屋の旧店舗」
(都新聞)

木村屋の創始者、木村安兵衛はもともとベーカーではありませんでした。

木村安兵衛は常陸の国(茨城県)北相馬郡川原村の出身で、東京府の授産所(授産所とは職業訓練所のようなものだったようです。1868(慶応4)年の戦争に次ぐ凶作で飢餓に苦しむ人々のために設けられました。)の事務をしていました。

安兵衛は在職中、長崎の人、当麻五左衛門と梅吉という人に出会いました。当麻五左衛門は出島でドイツ人宅のコックをしており食パンの作り方を知っていました。梅吉も長崎出島の在留オランダ人コックに雇われたことがあり、彼もパンの製法を習得していました。

安兵衛は梅吉に就いてパンの製法を学び、当麻五左衛門の製パン法と併せて製パン技術を会得しました。当初は「パンて一体、何だか聞いたことのないものだが、毛唐人の食い物なら日本人だって食って毒になるものでもあるまいと」(※1)思ったようです。ところができあがってみるとさっぱりおいしくありません。そこで「之に砂糖を入れたら好かろう」(※1)と味を工夫しました。

パンの将来性に確信をもった木村安兵衛は、1869(明治2)年、芝・日陰町に「木村屋」(開店当初は「文英堂」でした)を開きました。

当時のパンは甘酒ダネの食パンで、まだ米糀の餡パンは製造されていませんでした。その後、木村屋は1874(明治7)年、煉瓦の2階建てが建ち並ぶ銀座にお店を移しましたが、当時の銀座は「霜どけで道の悪い」街でした。

安兵衛と長兄の栄(英)三郎が餡パンを売り出したのはその頃のことでした。木村屋に伝わる餡パンの製法は「食パン類のホップスを得ることは、なかなか困難であったから、種を改良して、白米から造る所謂”酒種”を工夫した」(※2)ものでした。「砂糖を多量に用いた日本人むきの”菓子パン”生地を造り、これに餡を包んだ」(※3)のです。

1882(明治15)年当時、銀座名物、木村屋の餡パンは1個1銭でした。

※1 1913(大正2)年9月14日都新聞・東京百のれん
※2 大日本著名店 大正13年版
※3 日本のパン 400年史

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