第7回 日本で初めての西洋菓子広告

「万国新聞紙」と「中川屋嘉兵衛のパン、ビスケット、ボットルの広告」

「万国新聞紙」と「中川屋嘉兵衛のパン、ビスケット、ボットルの広告」

「万国新聞紙」と「中川屋嘉兵衛のパン、ビスケット、ボットルの広告」

「万国新聞紙」と「中川屋嘉兵衛のパン、ビスケット、ボットルの広告」

横浜の外国人居住区では新聞が発行されるようになりました。英字の“ジャパン・ヘラルド”や邦字の“海外新聞”、“万国新聞紙”、“倫敦新聞”が発行されましたが、特に1867年(慶応3年)1月に創刊された“万国新聞紙”は海外、国内のニュースを掲載し、販売部数を伸ばして読者を獲得することを念頭において発行されたという点で従来の刊行物とは大きく異なっていました。

この“万国新聞紙”の3月号、6月号、翌年3月号に3回にわたって中川屋嘉兵衛という人が以下のようなパン、ビスケット、ボットルの広告を載せています。

パン、ビスケット、ボットル(牛酪、バターのこと)
右品物、私店に御座候間、多少に寄らず御求被成下度奉願候
横浜元町1丁目 中川屋嘉兵衛

中川屋嘉兵衛は牛肉を売ったり、函館五稜郭の自然氷を運んで氷室業を営んだり、出版事業をてがけたり、東京芝・露月町で牛鍋屋を開業したりと、舶来ものの事業を次々におこしたハイカラな人だったようです。

「文化伝来史話」によれば、中川屋嘉兵衛は英国駐屯部隊に出入りするうち兵士からパンの作り方を教えてもらい、後にパン製造業を営みました。横浜の古い日本人パン屋の1人でもありました。

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