まだ江戸と呼ばれていた東京にも1868年(慶応4年)、築地の軍艦操練所跡地(現在の中央卸売市場築地市場の一部)にホテルが建てられました。米国人(※「日本洋菓子史」では英国人)のR.P.ブリジェンスの設計による本格的なホテルでした。建設を請け負い、経営にも携わったのは現在の清水建設株式会社の2代目清水喜助でした。和洋折衷の築地ホテル館(外国人は江戸ホテルと呼んでいました)の中央には火の見やぐらを模した塔屋がそびえ、ホテルからは遠く富士山や下総の国、品川沖の外国船まで見通すことができたといいます。
1868年にここ滞在したLondon and China Telegraphの記者は「すばらしい食事」を口にできると書いていますから、料理も本格的でした。
築地には続いてホテル・デ・コロニーが生まれ、ここにはフランス人コック、ベギューが働いていました。彼は1871年(明治4年)の天長節に、外務省が在日外国人高官を招いた晩餐会でその料理を担当しました。
新しい時代の到来を予感させるシンボルでもあった築地ホテル館(江戸ホテル)は休業後、1872年(明治5年)の銀座の大火で焼失してしまいました。横浜で刊行された1872年4月6日付けのThe Japan Weekly Mailは“The Fire at Yedo”と題する記事で《入り口を形成していたアーチを除き、建造物は何一つ残らず、このアーチの下に立つと向こうの海がよく見渡せた。ホテルの損失を評価することはほとんど不可能である》とホテルの焼失を惜しんでいます。
参考文献:一般社団法人日本ホテル協会発行「HOTEL REVIEW」[外国人居留地比較研究グループ]