鎖国政策をしいていた間も長崎にはオランダ、イギリスなどの商館があり、そこには日本人コックも働いていました。彼らがどんなメニューをどう調理したのか、食材の調達、台所、調理器具など、想像すると興味はつきません。
時代が移り、江戸時代の末期になると各国からさかんに開国を迫られるようになりました。
1853年(嘉永6年)に来航したロシア使節極東艦隊や、1860年(万延元年)、江戸湾に入港したプロシア使節団は、交渉のため、日本の役人と会食しています。
役人たちは出された菓子やビスケット、葡萄酒や果実酒、牛肉やハム、果物の缶詰を眺め、賞味し、これらを少しずつ包んで懐に入れて持ち帰ったそうです。生まれて初めて食べた異国の珍しい食べ物を家人たちにも味あわせてあげたいと思ったのかもしれません。役人たちは好奇心に富み、料理名を書きとめたりしてとても勉強熱心でした。
プロシア使節団は「彼等(日本人)は酷く音を立ててスープを啜りこむので我々は笑い出さぬよう非常に努力した」と記録しています。外国人の目には日本人の食事マナーは噴飯もの、食文化の違いは食べ物だけではなかったようです。