第1次世界大戦後の恐慌の余波でその後の日本の経済は、慢性的不況に陥っていました。失業者は増え、全国各地でストライキや小作争議が勃発、1930年(昭和5年)、1931年(昭和6年)と不況は深刻化しました。
経済は破局、中国では民族意識が高まり、排日運動が起りました。危機に無力な政府に代わり、台頭してきたのが軍部でした。1931年(昭和6年)9月18日に勃発した柳条溝事件に端を発した満州事変から日本は戦火を拡大、1941年(昭和16年)12月8日、日本の陸軍はマレー半島に侵攻、と同時に海軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入しました。
日本は“非常時”となり、戦争を遂行するために1938年(昭和13年)には“国家総動員法”が制定されました。この法律によって政府は国の経済や国民の生活を総て統制・運用しました。菓子にも“公定価格”が設定され、製品の規格も価格も政府に管理されました。「日本洋菓子史」にはビスケットから洋生菓子にいたるまでの公定価格が何十頁にもわたって掲載されています。
1943年(昭和18年)になると奢た品禁令によってデコレーションケーキの製造販売もできなくなりました。もっとも、作りたくても材料の入手もままなりませんでした。
第26回に登場した木村吉隆氏は、1942年(昭和17年)には、青森県八戸の南部製菓有限会社で講師兼製造部長を務めていました。例えば木村氏が10月12日(月)に製造したフィンガークツキス(中級品)の配合は次のようなものです。
人造バター: | 680匁 |
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双月糖蜜: | 1斗5升 |
重 曹 | 20匁 |
炭酸アンモニア: | 7貫500匁 |
水: | 2合(重曹を溶く) |
小麦粉(中質): | 7貫500匁 |
大豆粉: | 1貫500匁 |
甘藷粉: | 750匁 |
この他、稗粉、漉屑(焼き物の屑を一夜水に浸し置き翌日、金篩で漉し出す)、玉葱粉などを使ってクッキーを焼いていたのです。
1944年(昭和19年)になると日本の都市はB29爆撃機の空襲にさらされ、「物資は欠乏、万事休す!」と池田文痴菴氏は記しています。統制は強化され、転廃業も避けられない事態でした。「主要都市の大半が灰燼」に帰するに及んでは「もはや正常な企業活動は完全に停止」せざるを得ませんでした。
1945年(昭和20年)8月15日、日本が無条件降伏する日まで、「日本洋菓子史」の中で最も不毛な、暗黒の時代が続きました。