1914年(大正3年)、ボスニアの首都、サラエボでオーストリアの皇太子夫妻が暗殺されました。この銃声はヨーロッパ全土を巻き込む世界大戦への引き金となり、日本も連合側に参戦、中国山東省の青島でドイツと戦火を交えました。しかし、戦場は主にヨーロッパでしたので、日本は戦争がもたらす好景気に沸き、”戦争ナリキン(成金)”を続出しました。この好況に支えられて、それまで在日外国人や一部の特権階級のものだった洋菓子も大衆的な嗜好品として普及し始めました。
戦争が終わった時、日本には捕虜として捕らえられたドイツ人が5000人もいました。その1人がユーハイムを創設したカール・ユーハイム氏です。カール・ユーハイム氏によれば「大部分は本国帰還を希望しているが、意外にも日本に残る意思を持つものが多い。1/3くらいが東洋に残る決心をしていて、支那語や日本語を勉強していた」のだそうです。
戦後、ユーハイム氏は銀座のユーロップで働き始め、捕虜仲間だったウォルシケ氏も同店でソーセージを作りました。この時、日本滞在を選択したドイツ人の中に、パンやソーセージのお店を始めた人もいました。彼らの会社は現在も名店として日本人に親しまれています。
銀座ユーロップで働き始めたユーハイム氏のもとには「タカハシ・ベカ」なる人物がいました。このタカハシ・ベカとは高橋三郎氏です。一般社団法人日本洋菓子協会連合会の前身、日本洋菓技術協会創設以来の業界の重鎮であり、「日本洋菓子史」にもしばしば登場する高橋三郎氏はカール・ユーハイム氏に直接教えを受けた1人でした。
1918年(大正7年)、休戦条約が結ばれると景気は一時的に後退しましたが、米国の好況に支えられて日本の輸出(絹です)も好調でした。
そこへ1920年(大正9年)の株価の大暴落です。追い討ちをかけるように1923年(大正12年)、関東大震災が発生しました。罹災した洋菓子店もあって打撃を受けましたが、震災後の復興は早かったようです。
大正時代の末、洋菓子の普及はさらに進みました。「中には相当の大繁盛を極めた者も随所に見受けられた」とのことです。「東京・銀座を中心に次々に出現したカフェーや喫茶店」でお菓子が提供されるようになり、こうした流れは地方へと広がっていきました。
森永製菓、不二家、中村屋、東京製菓(後の明治製菓)、コロンバン、米津、資生堂、グリコなど、大正年間に現在の礎を築いた企業がたくさんあります。
参考文献:頴田島一二郎著「カール・ユーハイム物語」(新泉社)