これまで明治維新以来の洋菓子の歴史をたどってきましたが、明治も終わりになると実にさまざまなお菓子が作られました。1912年(明治45年)頃のの記録には次のようなお菓子が見られます。
シュークリーム、エクレア、ゼノアズ、ブッシェ、マダレーンヌ、ショソン、アルメット・ポンムなど、これらは「普通ケーキ」と呼んでいて1個4銭でした。もう少し上等なのがガトウでした。ガトウ・ア・ラ・プラリネ、ガトウ・モカ、ペテシャロット、ガトウ・シャンテリ、タルト・オ・ポンム、タルトレット・オ・フレーズ、ガトウ・ア・ラ・マカロンなどのガトウは1個5銭でした。
1907年(明治40年)前後に作られていたのお菓子を再現したのが写真の製品です。
左の列下へゼノワズ、ホネーケーキ、タルト・アナナス、コンポート・ポム。中列下へブッシェ(モカ)、フレンチ・パイ、アマンド・パイ、ウォーナッツ・パイ、ランピョン。右列下へスクアル・ターツ、クロアサン、マダレーン、シューカンデー。お皿の上、ジャンボン(パピヨット付き)から時計廻りにビスキュイ・スリーズ、ガトー・プラリネ、ポム・ド・テール、ラロッシュ。
1919~1920年(大正8~9年)頃、銀座ユーロップのカール・ユーハイム氏はお菓子をバター・クリームで仕上げ、従来の日本の西洋菓子に大きな影響を与えました。バター・クリームは1902年(明治35年)以前からで使っていた(※)という記述もありますが、広く普及していたわけではないようです。主流はフォンダンをかけ、濃く着色したグラス・ロワイヤルを絞って飾る仕上げでした。ユーロップではサンドケーキ、バウムクーヘンなどのドイツ菓子が作られていました。
バター・クリーム仕上げは、1923年(大正12年)の関東大震災以降本格化したようです。バラの花をバター・クリームで絞るのもこの頃から盛んに行われるようになりました。
※『ガトー誌』1958年7月号p.43参照