日本で初めて本場ヨーロッパでお菓子作りの修業をした人といえば、両國若松町の米津松造氏の息子、恒次郎氏でしょう。
恒次郎氏は1884年(明治17年)18歳の時、米国に旅立ち、エレメンタリー・スクールに入学しました。まず小学校に入学して語学の勉強から始めたのです。米国に3年滞在しましたが、日本人には閉鎖的だったようでその後、ロンドン、パリに移りました。ヨーロッパのお菓子事情をつぶさに観察し、帰国したのは1890年(明治23年)でした。
恒次郎氏の洋行前、1882年(明治15年)10月7日の東京日日新聞は『法律、医学、種々の伝習家あれど、菓子研究のための渡航は、蓋し恒次郎氏を以って第一とすべし』と洋菓子修業のための海外への渡航を驚きをもって報じています。
恒次郎氏は帰国後、サブレーやデセール、ワッフル、アップルパイを次々に世に出し、本格的なフランス料理や菓子を紹介しました。もっともワッフル、デセール、サブレーに関しては、ある古老の記憶によれば1884年(明治17年)には、すでにこれらの菓子の新聞広告が出されていたともいいます。
1903年(明治36年)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会にはシュガー・ウェファース、チョコレート・ウェファース、マシュマロ、サブレー及びカルルス煎餅などを出品して留学の成果を発表しました。審査報告書には欧米製に比べてもほとんど遜色なく”各ともに精良なり”と報告されています。
ワッフルやアップルパイ、サブレーやウェファース、マシュマロを口にした人々は、新しい時代の始まりを実感したに違いありません。