メイユ・ウヴリエ・ド・フランス(M.O.F.) [Meilleur Ouvrier de France]
最優秀技能者と訳され,様々の職業の中で,特に卓抜な技術を持った職人にのみ与えられるフランスの称号。菓子部門ではパティシエ,グラシエ,ショコラティエの3部門があり,試験は原則として3~4年に1回開催される。菓子部門の試験は,決められた種類を制限時間内に完成させ、総合力が判断される。襟に青・白・赤の3色のトリコロールの入った作業着の着用を許されるのは通常M.O.F.だけ。難関を突破した真の実力者の証である。
パンプルムース [pamplemousse]
学名はCitrus X paradisi、亜熱帯を原産とする大きな柑橘類で、1700年代に西インド諸島のバルバドスで発見されました。
英語のグレープフルーツはブドウのように数個まとまって実がなる形状からきているといいます。グレープフルーツと呼ばれるようになったのは1800年代で、それ以前、ジャマイカでは英語で“禁断の木の実”とか“小さいザボン、ブンタン(shaddock)”と呼んでいました。Shaddockとは17世紀末に、バルバドス島に立ち寄った司令官の名前で、彼がポメロ(ブンタン)の種をバルバドス島にもたらし、これが地元のオレンジと自然交配したため、shaddockの名前が定着したと言います。ただ、現在でもshaddockと呼ぶ地域はまだありますが、この人名説は疑問視されています。
ポメロは南西アジアを原産とし、マレーシアやインドネシアに自生していました。フランス語のパンプルムースはマライ半島の言葉、pumpulmas(この言葉も他の言語からきているのかもしれないのですが)が語源ではないかと考えられています。これがほとんど変化せずにオランダ語でもpompelmoesになりました。
アメリカには19世紀前半に紹介され、カリフォルニアやフロリダに広まりました。ピンクの実のグレープフルーツが発見されたのは20世紀に入ってからです。主要な生産地はイスラエル、アルゼンチン、南アフリカに及び、日本では殆どが輸入品です。
Alan Davidson「THE OXFORD COMPANION TO FOOD」
ボンボン・(オ・) ショコラ [bonbon (au) chocolat]
パティスリーと共にコンフィズリー(confiserie)が充実した洋菓子店が増えています。砂糖を加工するコンフィズリーの殆どは一口で食べられる小さな糖菓、ボンボンです。ドラジェやボンボン・オ・ショコラ(プラリネ)はもちろん、果物を使ったものでは、パート・ド・フリュイや、アプリコットや洋梨のフリュイ・コンフィ、ナッツを使った有名なヌガー・モンテリマールもマロン・グラッセもボンボンです。
プティ・フールのフリュイ・デギゼや、クルミ、アーモンド、ヘーゼルナッツなどのナッツにカッセ状態に煮詰めた砂糖をかけたものもボンボンなら、工業的に生産されるキャラメルもドロップもボンボンです。現在では、大雑把には果物とエッセンスで香りを付けたさまざまな形のお菓子屋さんが作る砂糖を使ったものの大部分がボンボンと言って良いでしょう。
ボンボンの言葉はフランス以外でも使われ、スペイン語やポルトガル語にもなり、18世紀の末には英国でも使われていました。フランスではボンボンは贈り物に使われました。この習慣が18世紀、細工の施された装飾性の高いボンボニエールやドラジュワールの容器を生み出したのです。
ボンボンの中でもボンボン・オ・ショコラはフィリングの詰まったチョコレートを意味します。ベルギーやドイツ、オランダ、ドイツ語圏のスイスではプラリネと呼んでいます。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
An A to Z of Food & Drink, John Ayto [Oxford University Press:Oxford] 2003
プレジール [plaisirs]
プレジールとは楽しみや喜びを意味します。現在ではプレジールの名前を付けたお菓子はさまざまですが、製菓の古い使い方ではウーブリ(oublies)を角笛状に巻いたものがプレジールでした。
ウーブリはゴーフルの1種で、当初、菓子屋が日暮れ時に残った生地で焼いていました。それが下働きの少年に与えられ、彼らはこれを売って収入にしました。少年たちはサイコロで賭けをして「さあ、お楽しみ!」と叫びながら売リ歩いていたので、18世紀半ばには彼らは「楽しみを売る人」と呼ばれるようになりました。ウーブリはこうしてプレジールと呼ばれるようになり、アイスクリームのコーンをプレジールとも呼ぶようになったのです。
参考文献:”TRAITÉ DE PÂTISSERIE MODERNE” E.DARENNE/E.DUVAL著
「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
パイ [pie]
パイはフランス語ではフイユタージュとかパート・フイユテと呼びます。フイユテ(feuilletée)は、葉や薄片(feuille)に由来し、フイユタージュとは生地を薄い層にする(feuilleter)作業のこと。そうしてできあがった生地がパート・フイユテ(pâte feuilletée)です。
では英語のパイはというと、これは鳥のカササギ、マグパイ(magpie)を語源とすると考えられています。カササギはさまざまな小さなもの、木の枝やわらなどを集めて樹木に球状の巣を作ります。この習性が種々の材料を詰め込む初期のパイの特徴を表していました。今ではこの特徴は失われ、主要な材料を示すチキン・パイとかアップル・パイという呼び名になりました。
参考文献:Alan Davidson「THE OXFORD COMPANION TO FOOD」
マルムラード [marmelade]
コンフィチュール(ジャム)が、まるごと、あるいは切った果物で作るのに対し、ジュレ(ゼリー)はある種の果物の果汁で作り、マルムラードは裏ごししたピュレで作ります。果物が潰されている点がジャムと異なります。Marmeladaは「甘いマルメロ(quince)の実のペースト」を意味するポルトガル語でした。
マルムラードに似ている英語のママレードはライムやレモンの柑橘類のジャムを指します。ママレードもポルトガル語のmarmeladeからきていますが、そのいきさつは複雑です。15世紀marmeladeは、薬として、果物の砂糖漬けとして英国に輸入されており、透明なタイプはフランスではコティナク(cotignac)、英国ではquiddonyとして知られていました。
英国には、中世、硬い砂糖漬けのレモンやビター・オレンジも輸入されており、これがポルトガルの生産品との類似からmarmaladeと呼ばれるようになりました。ダムソン(西洋スモモの1種)やリンゴ、洋梨、桃のmarmaladeはスライスして指でつまんで食べるもので、現在のママレードとは全く似ていません。
19世紀には料理本にマルメロのmarmaladeも紹介されていますが、marmaladeは今よりずっと広い意味で使われていました。いずれにしても英国ではママレードはジャムより高級品のイメージがあり、20世紀の伝統的な英国の朝食にトーストとオレンジ・ママレードは欠かせませんでした。
参考文献:”TRAITÉ DE PÂTISSERIE MODERNE” E.DARENNE/E.DUVAL著
「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
Alan Davidson “THE OXFORD COMPANION TO FOOD”
ヘクセンハウス [Hexenhaus]
ヘクセンハウスとは魔女の家。同名の有名なグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」の家として知られています。ドイツのクリスマスの代表的なお菓子で、ホーニッヒクーヘン・タイクやバーズラー・レッケルリ、レープクーヘン・タイクで作ります。これらの生地の原料は、はちみつ、粉、各種スパイスです。
レープクーヘン [Lebkuchen]
ドイツのクリスマスの代表的なお菓子。クリスマスを彩るヘクセン・ハウスもレープクーヘンの生地で作られます。現在のレープクーヘンの原型はキリスト教が広まる以前、エジプトやローマ、ギリシャ時代までさかのぼります。古代ギリシャ時代にはロードス島で作られていました。
レープクーヘンの語源ははっきりしません。甘い、を意味する古いドイツ語“lebbe”からきている、あるいは平らで丸い発酵種の入らないパンを意味するラテン語の“libum”からきていると考えられています。オリジナルのレープクーヘンは13世紀、バヴァリア地方の男子修道院でハーブ液を混ぜて作られたハニー・ケーキでした。教会では祭壇に蜜蝋を灯します。はちみつはその副産物でした。商業的な生産は14世紀にニュルンベルグで始まり、ギルドの創設が承認されたのは1643年のことでした。
レープクーヘンは、はちみつ、粉、アニス、コリアンダー、クローブ、ジンジャー、カルダモン、メース、オールスパイス、ピメント、シナモン、アーモンドなどのナッツ、砂糖漬けの果物を材料とします。有名なニュルンベルグの伝統的なレープクーヘンの香料は古代のスパイス・ルートで届き、町は香料の品質にも厳格でした。レープクーヘンの底には普通オブラートがついていて生地がテンパンにつくのを防いでいます。ホスチア・オブラタの上にレープクーヘンの生地をのせるこの秀逸なアイディアは修道士によるもので、この実際的な方法によりレープクーヘンは間もなくバヴァリア地方の最もポピュラーなスペシャリテになりました。
現在、ニュルンベルグ・レープクーヘンは機械化されていますが、町のベーカリーでは今も飾りを施したレープクーヘンを作っています。
参考文献:http://www.lebkuchen.nuernberg.de/englische_version/index.html
http://www.food-from-bavaria.de/en/reg_spez/einzelprodukt.php?an=63&display_lang=en
http://www.germany.info/relaunch/culture/life/lebkuchen.html
ウエファーとワッフル [Wafer & Waffle]
Wafer & Waffleは共に、オランダのフランドル語のwafelとwaferから派生しており、フランス語のgaufreゴーフルに通じます。それらは聖体拝領の時のキリスト教徒のミサのパンに由来します。オランダの歴史家、Janny de Moor(1994)は次のように説明しています。“早期のカソリック教会では発酵していないパンを使っていた。宣教師たちは焼き器を携えてヨーロッパの異教の荒野を歩き回り、自ら焼いた。2枚の金属の間に生地を流し、手を火傷しないように2本の長い柄が付いていて、型には模様が刻まれていた。模様は表面積を増して生地が早く焼け、ウエファーに装飾を施すことにもなる。”実際、6、7世紀からの型がカルダゴで発見されているといいます。
13世紀まで普通の人はこれらを作ることが許されていませんでした。ウエファーは宗教、布教活動の初期に大きな意味をもっていたのです。型には入念に家紋や宗教的なシンボル、肖像や景色などが彫られています。プレートの多くは四角形ですが、丸いプレートもあります。
ウエファーは宗教と離れてドイツ人などにより、熱心に作り続けられました。一般に広まったウエファーは、まだ温かい軟らかいうちにロール状に巻いたりしてゴーフルの原形、※ウーブリoubliesとなりました。1270年にはウブレイユールのギルドがパリで創設されています。(※パティスリーpatisserie参照)
ウエファーはしばしばお祝い事に用いられ、祝祭日に焼かれます。今ではウエファーでアイスクリームをサンドしたり、アイスクリームに添えたりして世界中で愛されています。
薄くカリカリしたウエファーに対し、発酵生地のワッフルは個性的な蜂の巣模様の趣向が凝らされています。ウエファーとの関連は前述の通りです。オランダとベルギーはヨーロッパの中でも最もワッフルが食べられ続けている地域ですが、北アメリカではワッフルはもっと重要になりました。”1620年、英国南西部の港町プリマスからメイフラワー号で米国に渡った英国のピルグリム・ファザーズ(英国清教徒団)はワッフルを知っていました。というのは彼らは出航前、しばらく、オランダで過ごしていたのです。”ピルグリム・ファザーズがもたらしたワッフルは18世紀以降、ワッフル・パーティーが開かれるほど一般的になりました。
20世紀初め、ベルジアン・ワッフルを、薄く、蜂の巣模様に焼く機器が現れ、バターを多く使えるようになりました。メープル・シロップをかけたり、泡立てた生クリームを添えたり、キドニー・シチューにワッフルはボルティモアではお馴染みのメニューです。米国ではワッフルは今や重要な朝食のメニューです。英国人はワッフルに馴染みがありませんでしたが、1950年代、電気のワッフル焼き器が大量生産されると、アメリカ国内の熱狂に倣うように英国でも流行りだしました。
日本で見かける楕円形の生地にジャムやカスタード・クリームを挟んだワッフルは、日本独自のタイプで、明治の中頃から販売されています。
参考文献:Alan Davidson著「THE OXFORD COMPANION TO FOOD」OXFORD UNIVERSITY PRESS
Albert R. DANIEL著「THE BAKERS’ DICTIONARY」APPLIED SCIENCE PUBLISHERS
http://www.coquinaria.nl/english/recipes/05.4histrecept.htm
ピュイ・ダムール [puits d’amour]
マドレーヌなどお菓子の歴史にしばしば登場するのが食通のポーランド王、スタニスラス・レクチンスカ(1677-1766)と娘のマリー・レクチンスカ(1703-1768)。1725年にルイ15世と結婚した彼女もやはり食通で、鶏のささ身とシャンピニヨン入りホワイト・ソースを詰めた小さなパイがお気に入りでした。この塩味のパイはやがて王妃風のパイと呼ばれ、ヴォ・ロ・ヴァンの考案につながっていきます。
18世紀後半のこの頃、ヴァンサン・ド・ラ・シャペルという料理人がいました。彼は若い時、船に乗って航海し、ロンドンでは第4代チェスターフィールド卿に仕え、1733年に英語で、続いてフランス語で料理書「キュイジニエ・モデルン」を著しました。彼は料理人として技術的な革新者だったばかりでなく、他の文化の味覚やアイデアに対し、18世紀のフランスの料理本の著者の誰よりも開放的な人物でした。彼には外部の影響を消化しよう、外国のレシピを理解しようと努める姿勢がありました。
そのため彼はフランス料理の主流から外れていましたが、カレームや、後にエスコフィエのもとで開花したフランス料理の礎を築いた1人です。自由で柔軟な発想のヴァンサン・ド・ラ・シャペルなら、お菓子にピュイ・ダムールと名付けても不思議はありません。ピュイ・ダムールはマリー・レクチンスカのお気に入り、塩味のパイのホワイト・ソースの代わりにクレーム・パティシエールかグロゼイユのゼリーが詰まったお菓子です。ピュイ・ダムール、“愛の泉”をロマンティックととるか、ショッキングと受け取るかは、それぞれの想像力と感性に委ねるとして、その美味しさにスキャンダラスな菓名が相まってとぶように売れたのだそうです。
ところで、パリに古くからあるお菓子屋さんの1つ、ストレー(Stohrer)のスペシャリテがババ、ピュイ・ダムール、ルリジューズ・ア・ランシエンヌです。創業1730年、初代のニコラス・ストレーはスタニスラス王に仕えていました。こちらのピュイ・ダムールはフイユタージュにクレーム・パティシエール・ヴァニーユがこんもり盛り上がり、表面がカラメライズされています。ヴァンサン・ド・ラ・シャペルに言わせればリアリティに欠けるかもしれませんが、これは有名なオペレッタに因んで創られたという事です。このオペレッタは多分1843年、Michael William Balfe作の“ル・ピュイ・ダムール”を指しているのではないかと思われます。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
「お菓子の歴史」マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 吉田春美訳(河出書房新社)
http://www.stohrer.fr/index.html
ルリジューズ [religieuse]
ルリジューズとは修道女、尼僧のこと。1850年頃、パリのリシュリュー通りとイタリアン大通りで流行りの店を出したフラスカティの店で「修道の誓いを立てた」とマグロンヌ・トゥーサン=サマはその出自を語っています。「見習い修道女」は年と共に姿を変え、1世紀位前から現在のように頭と、長い流れるような修道服を連想させる姿になりました。シューの周りに絞ったクリームは修道服のひだの襟飾りを思わせます。
ルリジューズは当初シュー生地の菓子を重ねて作るピラミッド型のピエス・モンテだったようですが、後にコーヒー、ココア、ヴァニラなどの香りをつけたクレーム・パティシエールを詰めたエクレアとシューで構成されるようになりました。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「お菓子の歴史」マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 吉田春美訳(河出書房新社)
ポワソン・ダヴリル [poisson d’avril]
エイプリル・フール、4月ばかのことです。4月1日の午前中は罪のない嘘をついたり、からかったりすることが許されています。うっかりその手にのると”エイプリル・フール”であることを明かされて大笑いしたりします。
この風習にはいろいろな説があります。
(1)昔の「春分」の名残。つまり旧暦の新年が新暦の3月25日に始まり4月1日まで続いた。インドでは春分の祭りをHuliといい、最終日の3月31日には無駄な使いをさせて人をばかにする風習がある。(2)ヨーロッパでグレゴリー暦を初めに採用したのはフランス。フランス王、Charles9世は1564年に新年が1月1日に始まることを定めた。新年の贈り物や訪問の習慣は新暦の1月1日にすることになったが一部の人は旧暦を捨てず相変わらず旧暦の新年に当たる4月1日に新年を祝っていた。といっても冗談半分で、ふざけた新年の贈り物や訪問で、笑い話の種を作っていた。この風習が英米国に伝わった。
(2)の風習は廃れていきましたが、これがエスカレートして偽の贈り物をしたり、嘘のことづてで人を担いだりするようになったというのです。
フランスでは担がれた人はpoisson d’avril、4月の魚と呼ばれます。なぜ、魚なのでしょうか? 諸説ありますが、1この時期は魚の産卵期で釣りが禁じられています。そこで釣り好きの人をからかってニシンを贈ったのが始まり…、とか 2この魚とはmaquereau、鯖を指し、鯖は簡単に釣り上げられて利口なイメージがないからとかいわれています。
ポワソン・ダヴリルが近づくとフランスのお菓子屋さんやパン屋さんにはチョコレートの魚やパイが並びます。レストランでは魚の形をしたパイの魚料理がメニューに登場します。参考文献:英米故事伝説辞典(冨山房)
カヌレ・ド・ボルドー [Cannelé de Bordeaux]
1990年代の初め、カヌレは日本のどこのお店でも見かけました。もともとはフランス南西部ボルドー地方の伝統的なお菓子です。カヌレの歴史は謎に包まれています。
ガスコーニュの“canelat”からきた名前だろうとする説があります。当初の“canela”は、停泊する交易船(ボルドーは交易の盛んな町でした)の船底に飛び散った粉を集めて焼いた小さなお菓子で、これを貧しい人々に配っていたといいます。
16世紀、修道院の尼僧姉妹が棒状に作ったお菓子がその始まりだろうとする説はよく知られています。1789年のフランス革命で、特権階級だった聖職者は迫害を受け、カヌレのレシピの秘密もこの影響で失われてしまいました。もっともこれは伝説の域を出ず、教団の歴史にこの美食の記録を見出すことはできません。
この頃からレシピに変化が生じ、ラムとヴァニラが加えられて形も現在のような溝の入った型が用いられるようになりました。ただ、中産階級の食卓からカヌレは姿を消し、すっかり見捨てられたお菓子でした。
一方で、本当のところはリムーザン地方のスペシャリテ、canoleに近く、これが17世紀にボルドーにもたらされたとする説もあります。かなりの量が消費され、このお菓子だけを作る同業組合もあったのだそうです。
20世紀の初めになると、カヌレはボルドーの郷土菓子として認識され、以来今日までボルドー市のシンボルとなっています。“canelé”の名前は登録され、1985年には伝統的なカヌレを保存するために同業組合が組織されました。
canneléとは溝を指します。12の溝のある銅の型で焼き、型には蜜ろうを塗ります。蜜ろうを塗ることによってお菓子が型から簡単に外れるばかりでなく、お菓子にカリカリした食感を与えます。黒っぽく焦げたような、キャラメリゼされたカリカリした表面の中に、しっとりとした弾力のある生地が隠されています。この意表をついたコントラストがカヌレの特徴です。
アキテーヌ地方には800のカヌレの製造業者がいて、そのうちジロンドだけで600を占めているということです。
参考資料:http://www.great-france.com/magazine/gastronomie/cannele.htm
http://www.jedecouvrelafrance.com/f-3449.gironde-cannele.html
クロワッサン [Croissant]
クロワッサン、このお馴染みのヴィエノワズリーの起源は1683年のウイーン説と1686年のブダペスト説があります。この頃、オーストリア=ハンガリー帝国は強大なオスマン帝国に立ち向かっていました。オスマン帝国は一時、西はハンガリー、東はペルシャ湾岸までを支配する大帝国でした。
1683年、ウイーンはトルコの太守カラ・ムスタファに数ヶ月間包囲されウイーン市民は餓死寸前でした。この時、ロレーヌ公シャルルとポーランド王ヤン3世ソビエスキの率いる軍隊がウイーン解放にかけつけ、トルコ軍を撃退、トルコ人たちは溜め込んでいたコーヒーや小麦粉を置いたまま一目散に逃走してしまいました。ウイーン解放に功績があったのがパン・菓子職人で、彼らは夜中にパン生地を捏ねながらトルコ軍が地下道を掘る音を聞きつけこれを軍隊に通報したといいます。このパン・菓子職人の功績を讃えて、トルコ軍の残していった小麦粉を使ってトルコの軍旗の旗印だった三日月の菓子を作る許可が与えられました。
お菓子屋さんの作るブリオッシュやパン・オ・ショコラをヴィエノワズリー(viennoiserie)、ウイーン風と呼ぶのはこの起源に由来するといい、かなり説得力があります。ところが、「ラルース料理百科事典」では、1686年、ブダペストが包囲された時の話として伝えられているのです。ただ、ハンガリーはこの時既にオスマン帝国の支配下にあり、ヨーロッパ人の手に戻ったのは1690年代になってからです。このブダペスト説は1938年、「ラルース料理百科事典」の初版本を出したアルフレッド・ゴットシャルクに端を発するとみられています。
フランスにクロワッサンがもたらされたのは1770年、マリー・アントワネットがオーストリアからフランス宮廷に嫁いだ時とされています。この頃のクロワッサンは現在のようなクロワッサン・フイユテではなく、普通のパン生地でした。クロワッサンのレシピが初めて現れたのは20世紀の初め、一般に普及したのは1920年頃からと考えられています。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
「お菓子の歴史」マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 吉田春美訳(河出書房新社)
クイニー・アマン [Kouign-aman]
ブルターニュ地方で作られている昔からあるパン屋さんのお菓子です。Kouign-amanとはブルトン語でガトー・オ・ブール、たっぷりバターが使われています。ブルターニュ人はクイニャマンと発音し、6~8人分の大きさに作るようです。
「名前が語るお菓子の歴史」によると『ドゥアルヌネのパン屋のおかみさんがパン生地の切れ端の上にうっかりバターを置いておき溶かしてしまった。バターと生地を無駄にしたくなかったおかみさん、生地を何度も折ってお菓子にした』、つまり怪我の功名というわけです。
1980年代に全盛を迎えたヌーベル・パティスリーへの反動からクラシックなお菓子に回帰するパティスリー・モデルヌの流れが生まれ、その中で注目されたのがクイニー・アマンです。きっかけはピエール・エルメ氏が彼の著作で取り上げて、昔からあるレシピを今風にアレンジして紹介したことに始まります。1990年代半ばには洋菓子店ばかりか大手製パンメーカーもこぞって参入、コンビニエンス・ストアにも並ぶ一大ブームとなりました。
参考文献:「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
クレーム・ブリュレ [Crème brûlée]
1990年代の初め以来、ポピュラーなデザート、クレーム・ブリュレは洋菓子店に欠かせないアイテムになりました。冷たく、クリーミーなカスタードに、カリカリした焼いた砂糖の熱さのコントラストが味覚を刺激します。
クレーム・ブリュレが初めてレシピに登場したのは17世紀です。発祥はフランスと考えがちですが、英国あるいはスペイン(Crema Catalana)と諸説あり、はっきりしていません。
1691年にフランス人のFrançois Massialotが著した“Le Cuisinier royal et bourgeois”にシナモンの香りのするオレンジ風味とライム風味のクレーム・ブリュレが紹介されています。彼は宴が催される都度招かれる料理人で、特に誰かに雇用されていたのではないだろうと思われています。ルイ14世の弟であるオルレアンの公爵、フィリップ公とその夫人や、何人かの公・侯爵のために料理をしていました。彼の能力をもってすれば宴はいずれも成功を収め、ゲストは大いに満足したことでしょう。彼の著作は18世紀半ばまで何版も重ね、そのレシピは後世に影響を与えました。
英国ではクレーム・ブリュレはバーント・クリームの名で、17世紀以来ポピュラーなデザートでした。ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジではケンブリッジ・バーント・クリームとか単にトリニティ・クリームの名で提供されます。トリニティ・カレッジのバーント・クリームには大学の公式の紋章が焼印されているのだそうです。
参考資料:http://www.coquinaria.nl/english/recipes/05.2histrecept.htm/An A to Z of Food & Drink, John Ayto [Oxford University Press:Oxford] 2003 (p. 96)
ビスキュイ・ド・サヴォワ [Biscuit de Savoie]
サヴォワはスイス、イタリアと国境を接するローヌ・アルプ地方にあります。そのサヴォワ地方を起源とする別立てのビスキュイです。フランスでも長いこと共立てが主流だったことを考えると14世紀の地方菓子としては極めて斬新な製法のお菓子でした。
ビスキュイ・ド・サヴォワ誕生のいきさつは1358年のサヴォワ地方の都市シャンベリーの宮廷に遡ります。サヴォワは多くの強国と国境を接し、サヴォワの伯爵は巧みな外交で代々領土を増やしていました。伯爵アメデ6世は食道楽で極度の肥満に苦しんでいましたが、この日も、宗主である神聖ローマ帝国の皇帝、ルクセンブルクのカール4世を晩餐に招きました。カール4世に感謝の意を表すため伯爵は料理人たちに命じて小さな料理を大きな皿で作って歓待し、伯爵を公爵に格上げしてくれることを画策していました。
晩餐で、羽のように軽いフワフワの“ガトー・ド・ザヴォワ”を食べた皇帝はいたくお喜びになり、シャンベリーの滞在を延ばしました。アメデ6世は食事のたびにデザートでもてなして、自分を公爵にしてくれるようアピールしましたが、残念ながらアメデ6世は公爵になれませんでした。公爵を名乗ることができたのは孫のアメデ8世の時でアメデ8世もやはり若い時から美食家でした。アメデ8世の料理人は通称タイユヴァンとして後世に名を残したといいます。
ビスキュイ・ド・サヴォワを好んだもう1人の人物はサド侯爵です。1788年バスティーユ監獄に入れられたサド侯爵は、夫人のルネ・ペラジーにビスキュイ・ド・サヴォワを届けさせ、夕方5時のお茶の時間にこのケーキを運ばせたと言います。1783年の手紙では「パレ・ロワイヤルで売っている2ダースのムラングと2ダースのレモン入りビスケット」を送ってくれるよう頼んでいます。1779年の手紙では「スポンジ・ケーキは私が要求したものと違う。
第一に、私はビスケットのそれと同じ砂糖の衣が、上にも下にも、まわり中についているやつを要求したのだ。第二に、私は中にチョコレートがはいっているやつを要求したのだ。チョコレートはほんのちょっぴりもありやしない。植物の汁で光らせてはあるが、チョコレートと言えるようなものは、それこそ、ほんのちょっぴりも使ってない。今度送ってくれる時は、そういうやつを作らせ、誰か信用の置ける者に、中にチョコレートが入っているかどうかをしらべさせるようにしてほしい。スポンジ・ケーキは板チョコを噛んだ時のように、ぷんとチョコレートの匂いがしなければいけないのだ」と、獄中の病的な食欲の中で細部にわたって贅沢な要求をしています。
14世紀のケーキは生地を厚い木の型に流して強火にさらさずに、静かに焼きました。独特のサヴォワ型で焼かれたビスキュイ・ド・サヴォワは現在では余り見かけないようですが、サヴォワのベニスと呼ばれる水の都アヌシーでは、クグロフ型やブリオシュ型で焼いたビスキュイ・ド・サヴォワが売られています。プティ・ガトーやアントルメにはテンパンに流して焼いたビスキュイ・ド・サヴォワがしばしば利用されます。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「お菓子の歴史」マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 吉田春美訳(河出書房新社)
「サド侯爵の手紙」 澁澤龍彦著(筑摩書房)
すずらん祭り [Fête du muguet]
ヨーロッパの北国では春の訪れを告げる花、すずらんを5月1日の前夜に摘みに行くといいます。フランスでは5月1日、メーデーはla Fête du muguet、すずらん祭りの日です。街角やメトロの出入り口、カフェの前に1日だけのお花屋さんが立ち、子供たちやお年寄りが「ミュゲ、ミュゲ、ミュゲは如何?」と呼びかけて小さなすずらんの花束を差し出します。この小さな花束を恋人や親子、親しい友人に愛情を込めて贈るならわしがすずらん祭りです。
お菓子屋さんの店先にはすずらんをデザインしたアントルメやプティ・ガトー、ヌガーやチョコレートで作った鉢植え型のケーキ、pot à muguetが並びます。飾るすずらんはあめ細工から最近はプラスチックの花に変わってきたようです。
ミュゲはミュスク(musc、じゃ香)から出た言葉で、すずらんが香り高いことを示しています。すずらんの花言葉は“幸福、繊細、幸福が戻ってくる、純粋”。すずらんのブーケを貰うと幸運が訪れると言われ、結婚式で花嫁がすずらんのブーケを持つのもすずらんが幸福のシンボルだからです。
復活祭 パーク Pâques(仏) イースター Easter(英) オースタルン Ostern(独)
復活祭は、ヨーロッパではイエス・キリストが十字架にかけられて死んでから3日目によみがえったことを祝う重要な祝日です。もともとはイスラエルで行われていた過ぎ越しの祭り(旧約聖書「出エジプト記」の記録に由来するユダヤ教の春の祭りです)が、キリスト教が広まる頃、キリストの死と復活を記念する祭りとなったのです。のちにキリスト教がヨーロッパ各地に広まると、布教の都合上、各地に古くからあった春分祭(春祭)とも混ざり合って、現在の復活祭の形になったとされています。復活祭は寒さの厳しい冬が終わり、暖かい春の訪れを喜ぶお祭りでもあります。
これは各国の語源にも表れています。フランス語のPâquesはユダヤ教の過ぎ越しの祭りを表すペサー(Pesach)からきています。英語のEaster、ドイツ語のOsternはゲルマン神話の春の女神エオストレ(Eostre)、あるいは春の月の名前エオストレモナト(Eostremonat)に由来するといわれています。
復活祭にはさまざまな行事が行われます。復活祭のシンボルは卵。子供たちは庭の茂みに隠された彩色したイースター・エッグを探して遊びます。イースター・エッグは茹で卵やチョコレート製、卵形のプラスチックケースにチョコレートやキャンデーが入ったものなどいろいろです。
卵はほとんどの文化で再生の象徴であり、うさぎが彩色された卵を産むという寓話もあります。うさぎをはじめ、鶏、コウノトリ、きつね、カッコウとヨーロッパの復活祭のシンボルはさまざまです。
復活祭が近づくとお菓子屋さんのショーウインドーにはチョコレート製の卵や鶏、うさぎが並び、ベルギーの街では復活祭の間、街中にチョコレートの香りがたちこめるといいます。年間売り上げの半分を復活祭が占めているのです。復活祭は移動祝日で「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」、2006年は4月16日です。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)他
マドレーヌ [madeleine]
貝殻型のマドレーヌを誰が考案したかについてはさまざまな説があります。ピエール・ラカンという人の「パティスリー・覚え書き」では『タレイラン公(Talleyrand 1754-1838)のもとで働いていたアヴィス(Avice)という腕利きの料理人が、トーフェ(tôt-fait:すぐにできるの意味。同割りの粉、砂糖、溶かしバター、卵を混ぜるカトル・カールと同類の生地)やカトル・カール(quatre-quarts)の生地を小さな貝殻の形をしたゼリー寄せの型で作ることを思いつき、アヴィス自身が愛人の名前、マドレーヌと名付けた』と言っています。
しかし、アヴィスが創ったとする以前にフランス、ロレーヌ地方のコメルシー(Commercy)にマドレーヌの起源があるとされています。
食通のポーランド王、スタニスラス・レクチンスカ(1677-1766)がロレーヌ地方に滞在していたおりの1755年のある日、王のパティシエが厨房で口論の末、仕事を放り出してしまいました。この時、若い召使の女性が祖母直伝のビスキュイのような菓子を作ってこの危機を乗り切った、この女性の名前こそマドレーヌだったというのですが、その信憑性は‥‥。
と言いますのはこの逸話以前に、スタニスラス・レクチンスカがレモンの香りのするマドレーヌ・ド・コメルシーをいたく好み、1730年頃にはヴェルサイユで、次いでパリで流行したとされているからです。スタニスラス・レクチンスカの娘、ルイ15世の妃になったムラングの好きなマリー・レクチンスカ(1703-1768)を通してパリに伝わったのかもしれません。
また、アレクサンドル・デュマの「大料理事典」にはマドレーヌ・ポミエという女料理人の名前も登場します。コメルシーの裕福な家の一流の料理人だった彼女がスタニスラス・レクチンスカのためにマドレーヌを作り、王が彼女を讃えてマドレーヌと名付けたというのです。しかしレシピが懲り過ぎで、どうもこの説は疑わしいと見られています。
マドレーヌの作り方は長い間秘密にされていましたが、コメルシーのお菓子屋さんに非常な高額で譲られ、町のスペシャリティになったということです。現在、正式な製造業者は1軒しかなく、この店のマドレーヌは薄いブナの皮で作られた楕円形の箱に入れて売られています。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
「お菓子の歴史」マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 吉田春美訳(河出書房新社)
ブリオシュ [brioche]
仏和辞典を見ると、ブリオシュは(1)パンの1種である、と共に俗語では(2)へま、失敗と訳されています。faire une brioche「ブリオシュを作る」とは、なんであれ、ある過ちを犯すことを意味します。
この言い方は、1875年にオペラ座ができた時、オーケストラの団員たちが交わした約束事に端を発しています。団員たちは全体の調和を守らなかった者から罰金を徴収することにしていました。たまった罰金は定例会合の日に皆で食べるブリオシュを買うお金に当てられ、罰金を払わされた団員たちはブリオシュを示す徽章をボタン穴にさしました。これが世間に広まって、日常の会話の中で「あっ、間違えた」「へまをしてしまった」時、faire une briocheと言うようになったのだそうです。
ブリオシュという言葉が初めて使われたのは1404年あるいは1604年と各説にひらきがあります。その語源も長い間論争の的でした。ブリー・チーズで有名なBrie地方から来たという説にはマグロンヌ・トゥーサン=サマは断固として次のように反対しています。「アレクサンドル・デュマが「大料理事典」でなんと言おうとブリー・チーズはブリオシュとなんの関係もない。ブリオシュはバターで作られるのである」
同様にオリーブ油を使うラングドック地方の様々な菓子パンをブリオシュと呼ぶのも不自然だと憤慨しています。今日では、ノルマンディー地方の方言、粉砕するを意味する動詞“broyer”を語源とする説が有力です。その根拠はバターの品質がブリオシュの品質を決定し、ノルマンディー地方は中世以来最高級のバター産地として余りにも有名だからです。“oche”は”hocher”(揺り動かす)に由来すると考えられています。
17世紀ブリオシュがパリに登場し、19世紀以来、丸くて溝のついた、底が小さく、上部が広がった型で焼かれていましたが、最近では型を使わずにフラットに焼くシャラント風ブリオシュを見かけることが多くなりました。ブリオッシュは普通、朝食やお茶の時間にコーヒーやホット・チョコレートと共に食べます。英国人からするとブリオシュはパンというよりケーキ。マリー・アントワネットのあの余りにも有名な台詞“Qu’ils manget de la brioche”も英語では“Let them eat cake”と訳されています。
ブリオシュで一般的なのはブリオシュ・ア・テト[brioche à tâte](別名:ブリオシュ・パリジャンヌ[brioche parisienne])。上につけた小さい部分が tâte、頭に例えられています。リング状のものは、ブリオシュ・クーロンヌ[brioche couronne]、ブリオシュの王冠です。バターと小麦粉を同量使う上等の生地で作る円筒形のブリオシュはブリオシュ・ムスリーヌ[brioche mousseline]です。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
Dictionnaire Français-Japonais de la CUISINE FRANÇAISE(三洋出版貿易株式会社)
「お菓子の歴史」マグロンヌ・トゥーサン=サマ著 吉田春美訳(河出書房新社)
Oxford Companion to Food, Alan Davidson[Oxford University Press:Oxford]1999(p.107)
ブーダン [boudin]
12月25日、クリスマスはキリスト誕生の日。今定着しているこの祝日がキリストの誕生日であるとは、実は聖書にも伝えられていません。4世紀まで、キリスト誕生の日は一定していなかったようで、東方(ギルシャ)教会では永いこと1月6日に生誕の祝いをしていました。4世紀中ごろ、西方(ローマ)教会のローマ法王の聖ユリウス1世が25日を降誕の祝日と定め、5世紀に入ると東方教会にもこの祝日が定着していきました。
この日は古来、異教の諸民族の間では、太陽の蘇生を祝う冬至の祭りの日でした。この民間信仰がキリストの誕生と結びつき、春に向かう希望と喜びの日として広まっていったのです。
24日、イヴの夜、教会では深夜・夜明け・午前と3回ミサを行います。深夜のミサは特に重要で、ミサの後、人々は予約していたレストランに行ったり、家に帰ってレヴェイヨン(réveillon)と呼ぶ伝統的な夜食を摂ります。テーブルにはトリュフを詰めた七面鳥、栗を詰めたガチョウ、フォア・グラ、牡蠣が運ばれます。この時、儀式としての象徴的な意味を担って出てくる特別な料理が黒や白のブーダン、一種のソーセージです。黒いブーダンには豚の血が必ず入り、香辛料、レバー、卵を材料とします。一方、白いブーダンには血は入れず、子牛、豚肉を挽いて、生クリーム、バターで作ります。この腸詰は沸騰した湯に入れて火を通します。
Boudinは腸詰、ソーセージですが、pouding(プーダン)と似た響きがあります。実際、2つの言葉は同じとする説もあり、ブーダンをプディングの1種と分類することもあります。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「朝日百科」世界の食べもの:フランス 7 ノルマンディー
フランス語の散歩道 9 樫山文男(ガトー1981年12月号)
プリン/プディング pudding(英) プーダン pouding/クレーム・カラメル crème caramel/クレーム・ランヴェルセ・オ・カラメル crème renversée au caramel(仏)
プディングは昔からイギリス各地で作られていました。イギリスのプディングは一般にパティスリーに属していますが、ビーフステーク・プディング、ビーフステークと腎臓のプディングなどは料理の部類に属します。
小麦粉、卵、牛乳を材料とするプディングは5~6世紀頃イギリスに渡ってきたサクソン人が作っており、1066年にノルマン人がイギリスを征服するずっと以前からありました。12世紀、ヘンリー2世の料理人たちはラムのローストや果物にプディングの生地を塗っており、これがヨークシャー・プディングや現在のプディングの原形と考えられています。
中世の修道院では果樹園で採れた果物をオートミールに混ぜてプディングを作りました。エリザベス1世の時代に入ると薄味の肉汁、果汁、ぶどう酒、プラム、メース、パン粉を使ったプラム・ポリッジになりました。牛乳、小麦粉、バター、卵をとろりとなるまで煮詰めてシナモンを振りかけるヘイスティ・プディングなど、プディングは手近にある簡単な材料を利用したつつましいものでした。
イギリスのプディングで有名なのが、クリスマスの食事を彩る、クリスマス・プディングとも呼ばれるプラム・プディングです。ケンネ脂やレーズン、砂糖漬けのピール、香辛料で作られるプラム・プディングをクリスマスに初めて食べたのはドイツ系のジョージ1世でした。ジョージ1世はイングランドで迎えた初めてクリスマスの1714年、濃厚なレーズン入りのこのプディングを食べたのです。以来、この習慣が一般に広まったといいます。プラム・プディングは7つの海を制したイギリスならではの食べ物です。といいますのも航海中、食材の調達は思うにまかせません。パン屑や小麦粉、ラード、レーズンなど積んであるあり合わせの材料を混ぜて味付けし、布で包んで紐で縛り、蒸し煮にしたのがプラム・プディングの起こりなのです。彼らはこれにチーズを振りかけて食べたといいます。
プディングは温製と冷製、甘味と塩味のタイプに分けられますが、卵、小麦粉、コーンスターチなど凝固させる材料によって分類することもできます。
イギリス生まれのプディング、フランスに行くと綴りはpoudingです。プーディング、あるいはフランス式にプーダンと発音します。ただ、カスタード・プディング [custard pudding] はクレーム・カラメル [crème caramel] とかクレーム・ランヴェルセ・オ・カラメル [crème renversée au caramel] と呼び、もはや名前にプディングの面影はありません。renversé「ひっくり返した、上下逆にされた」という意味で、ひっくり返して皿にあけカラメルが流れる様子が伝わってきます。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
TIME LIFE BOOKS 世界の料理「イギリス料理」 エイドリアン・ベイリー
フランス語の散歩道 7 樫山文男(ガトー1981年10月号)
英国大使館ホームページ
カリソン [calissons]
このマジパンのようなお菓子はエクス・アン・プロヴァンスのスペシャリティです。ホームメイドのお菓子というより、多くは工業的に生産されており、祝祭日の晩餐に欠かせません。エクスのカリソン誕生に関してはいろいろな説があります。その1つが、カリソンが現在のような形で作られるようになったのは、1473年のレネ王の再婚の宴の席だというものです。王妃ジャンヌに密かに夢中だったコックが彼女のために創造したというのですが‥。
16世紀、プロヴァンス地方にアーモンドが紹介され、アーモンドの生産が拡大するにつれてエクスはその交易地として発展しました。19世紀になると初めてのカリソンの工場が登場し、20世紀の初頭までエクスは世界のアーモンド貿易の中心地でした。エクスには約20の工場があり、今日、エクスのカリソン製造組合を組織しています。
カリソンの歴史をひもとけば、1629年、エクスの住民の一部を襲った恐ろしいペストの流行に触れないわけにいきません。1630年1月、ペストの沈静を願った陪席判事のMartellyは、主だった市民を率いてミサに出席し、エクスの守護聖人に捧げる儀式を毎年行うことを誓いました。
革命まで、Martellyの誓いを忘れないために9月1日には市のベルを鳴らしていました。ミサでは大司教によって祝福されたカリソンが、賛美歌が歌われる中、会衆に配られました。Martellyの誓いの伝説は数世紀にわたって守られ続けたのです。
参考:Office de Tourisme-Aix en Provence/「名前が語るお菓子の歴史」
ニナ・バルビエ&エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
ギモーヴ [guimauve]
お菓子のギモーヴ、マシュマロは、植物の名前でもあります。marsh、湿った土地に群生するmallow、アオイ、ウスベニタチアオイ(薄紅立葵)です。夏、人の背丈以上にぐんぐん伸びて白やピンク、赤い花を咲かせるごく一般的に目にする植物です。Althaea属の学名はギリシャ語で癒しを意味し、日本には薬用として渡来しました。
古代ギリシャのテオフラストは咳止めのコーディアル(甘味と香料を加えたアルコール性の飲料、リキュール)としてマシュマロの根を甘いワインに浸したと記録しています。甘みのあるマシュマロの根は粘液を多く含み、水に浸しておくとゼリー状になります。これがマシュマロのオリジナルな成分として有名なものです。
お菓子のマシュマロはフランスで19世紀半ばに開発されました。卵白や砂糖を加えて軽く食べ易くした柔らかい菱形の薬用食品で、咳を止め、喉の痛みを和らげる効果がありました。人参の形をした乾いた根は、赤ちゃんの伝統的な自然なおしゃぶり“ギモーヴのおしゃぶり”として知られています。
ラルース料理百科事典でコンフィズリーのギモーヴは“別にこの植物を使っているわけではない”と言っているように、現在作られているお菓子のマシュマロには植物の成分は含まれていません。
参考:Beauty Rituals International glossary/Food Timeline:history notes-candy
チョコレートとココアはカカオの豆から作られます(用語の解説:カカオ・バター /カカオ・ニブ/カカオ・マス/ココア参照)。カカオの実が成るカカオの樹の原生地は南米のアマゾン河流域やベネズエラのオリノコ河付近で、アマゾン河の奥地には今でもカカオの原生林が見られます。
カカオの樹は、アオギリ科ティオブロマ属に属し、学名をティオブロマカカオといいます。1720年、スエーデンの植物学者リンネによって名づけられ、ギリシャ語でティオは神、ブロマは食べ物、すなわち「神様の食べ物」を意味します。
7世紀、マヤ文明の時代、既にカカオの樹は栽培されていました。13~16世紀にかけてアステカ王国の勢力はメキシコ中部に及び、カカオの樹の栽培はメキシコ地方にも広がっていきました。栽培はされていたもののカカオ豆は非常に高価で、通貨として通用するほどでした。1520年頃、ニカラグラでのカカオの価値は100粒が奴隷1人に相当したといいます。
アステカ族はカカオ豆をすりつぶし、ヴァニラやコショウなどで香りをつけ、とうもろこしの粉を加えて冷やして固めておきました。飲む時にこれを細かくして湯か水で溶かし、激しくかき混ぜて泡立て、濃い飲料にして飲んだのです。彼らはこれを現地の言葉、kaj=bitter(苦い)とkab=juice(汁)に液体を表すatlを語尾につけカーカーアトル(ka-ka-atl)と呼びました。これがスペイン語の語形になってcocoaやcacaoになったといわれています。カーカーアトルは文字通りかなり苦く、ピリリと辛い飲み物でした。アステカの皇帝モンテスマは食事の時、酒の代わりにカーカーアトルを好んで飲んだと言います。彼は黄金の杯で精力剤として1日50杯、飲んだのだそうです。
参考文献:ガトー1980年1・2月号「チョコレートの話 1・2・3」日新化工株式会社技術課:石山茂樹
カカオ豆をヨーロッパ人が知ったのは1500年頃のことでしたが、その用い方、効能が知られたのは、1519年、スペイン人の探検家、フェルナンド・コルテスがアステカ王国に到着してからでした。コルテスはアステカの貴族が愛飲する赤褐色の飲み物が疲労回復に効果的であることを発見、スペインの国王カルロス・世に財宝と共にカーカーアトルを献上しました。
カルロス・世はカーカーアトルに砂糖を加えて飲みやすくし、すっかりカーカーアトルのとりことなりました。スペインに渡って50年、チョコレートと呼ばれるようになったカーカーアトルですが、カカオ豆が貴重品で高価だったため、ヨーロッパ中に広まるのは17世紀初めまで待たねばなりませんでした。チョコレートという言葉が初めて使われたのは1575年と文献から明らかです。しかし、何故、チョコレートと呼ばれるようになったのか、信憑性のある説はありません。ka-ka-atlをかき混ぜるとchoco-chocoと音がしたとか、古代マヤ語のchacau、チャウカウ、温かいものという言葉が変化したという説もありますが、いずれも根拠はうすいようです。
1660年、フランスはカカオ豆の増産を図って西インド諸島のマルチニック島などでカカオ豆の栽培を始めました。ロンドンに初めてチョコレートを飲む喫茶店「チョコレート・ハウス」がオープンしたのもこの頃で、1657年のことでした。
1828年、オランダの科学者、コンラッド・バン・ホーテンはカカオ豆の脂肪分、カカオ・バターを2/3まで搾り取ることに成功しました。より飲み易く、湯に溶けやすくなり、今、私たちがココアと呼んでいる飲み物が普及し始めました。この20年後、イギリスのフライ社が板チョコを発売しました。板チョコはココアを作る際、副産物としてできるココア・バターにカカオ・マス、粉砂糖を加えて作りました。この時、アステカの高価な健康飲料は一般の人が手軽に味わえるチョコレートに一歩近づいたのです。
参考文献:ガトー1980年1・2月号「チョコレートの話 1・2・3」日新化工株式会社技術課:石山茂樹/Cadbury’s CHOCOLATE COOKBOOK:Patricia Dunbar(HAMLYN)/日本チョコレート・ココア協会ホームページ
その昔、日本でチョコレートを食べたのはどんな人だったのでしょうか?記録に残る名前では長崎丸山の“筑後屋平右衛門”やそのお抱え遊女大和路をあげることができます。1797(寛政9)年の長崎丸山の遊女の貰い品目録に”こおひ豆”1箱と共に“しょくらあと6つ”と記されています。
1873年(明治6年)、特命全権大使岩倉具視の一行がヨーロッパを視察した際、彼らはフランスでチョコレート工場を見学、リオンでもチョコレートを食べたと記録されています。
日本で初めてチョコレートを加工して販売したのは東京日本橋區若松町 両國 米津松造だといわれています。彼は1878(明治11)年12月24日の「かなよみ新聞」にチョコレートの広告を出しました。この頃、チョコレートは猪口令糖、貯古齢糖、知古辣、千代古令糖などと書き、カカオは甘豆餅と表記していました。
明治30年代にはキャドバリー、メニエル、ピーター、フライといった輸入チョコレートを東京銀座などごく一部の店で手に入れることができましたが、一般の人には無縁のお菓子だったようです。「牛肉を食べると角が生える」といった迷信に惑わされ、チョコレートには牛の血が混じっているといった虚言がまことしやかに囁かれていた時代です。その上高価でした。10銭で大福もちやあんパンが10~15個も買えたのに対しチョコレートはメニエルの小さい箱1つしか買えませんでした。
1899(明治32)年に森永太一郎氏が創業した森永商店は、原料チョコレートを輸入してクリーム・チョコレートの製造を始め、1909(明治42)年には板チョコレートの製造も始めました。翌年には日米堂芥河商店の洋造氏が米国で学んだチョコレートの製造技術をもってチョコレート、キャンデー類の製造を始めました。しかし、宣伝しても売れ行きに直結せず、パイオニアたちは苦しい戦いを続けていました。
一般に普及し始めたのは1918(大正7)年、森永製菓がカカオの豆から一貫して工業的に生産するようになってからです。1926(大正15)年には明治製菓もチョコレートの製造を始め、生産量も一気に増えました。と同時に質も向上し、チョコレートは日本人になじみ深いお菓子となっていきました。
参考文献:ガトー1980年1・2月号「チョコレートの話 1・2・3」日新化工株式会社技術課:石山茂樹/「日本洋菓子史」池田文痴菴(一般社団法人日本洋菓子協会)/日本チョコレート・ココア協会ホームページ
パン・ド・ジェーヌ [pain de Gênes]
ジェノヴァのパンという意味のパン・ド・ジェーヌは、アーモンドを使ったリッチなお菓子です。このお菓子はサント・ノーレ通りにあった名店「シブスト」(※1)のシェフ・パティシエ、フォヴェルの創作によるものだと伝えられています。アーモンドにラム、あるいはキルシュを加えて作ったビスキュイを「シブスト」ではアンブロワジー、神々の食べ物と名づけていました。
「神々の食べ物」が「ジェノヴァのパン」に名称が変わったのは、1800年のフランス軍がイタリアの町、ジェノヴァを包囲した時のエピソードに由来します。敵軍に包囲され、街に立てこもった兵士たちは残された食料のお米とアーモンド、5万Kgを食べて生き延びたというのです。
パン・ド・ジェーヌは周囲に溝のあるタイプのマンケ型 [monqué rond cannelé](※2)で作り、大きさは大・中・小あります。生地の製法が難しく、型が大き過ぎても深過ぎてもうまく焼けません。アーモンドは粒をローラーで挽いて使うのですが、ローマジパンを利用すれば手軽に作れます。泡立て方も要注意。泡立て過ぎればオーブンの中で吹き上げてしまうし、泡立てが充分でないと火の通りが悪くなってしまいます。シンプルな焼き菓子こそ、テクニックは奥深いものがあります。
※1洋菓子あれこれ「サント・ノーレ [Saint-Honoré]」参照
※2用語の解説「マンケ型 [moule à manqué]」参照
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
マンケ [manqué]
ある日、パリの有名な菓子屋フェリックスで、シェフがビスキュイ・ド・サヴォワの生地を作っていました。ところが、卵白が充分に泡立たず、生地に粒々ができてしまいました。これを見た店主は一言、『この菓子はできそこないだ!(le gâteau est manqué)』
そこでシェフはできそこないのこの生地に一定量のバターを加えてお菓子に焼き上げてしまいました。プラリネを被せて売り場に並んだこの新製品、すぐにある女性に買われました。数日して再びフェリックスに買いに来た彼女は、「先日と同じお菓子」を求めました。
こうしてあの「できそこない」、マンケ(manqué)はフェリックスのスペシャリテになり、ひいてはパリで非常に流行したということです。ですからマンケの生地はビスキュイ・ド・サヴォワに準じた配合《小麦粉:250g、上白糖:375g、バター:125g、全卵9コ、塩:1つまみ、ヴァニラ》で、もともとはブリオッシュ型で焼いていました。その後、専用の型が考案され、この型を [moule à manqué] と呼ぶようになりました。*マンケ型の特徴は上面と下面の面積に差があり、側面から見ると台形をしていることです。マンケ型には丸、四角さまざまなタイプがります。
※用語の解説「マンケ型 [moule à manqué]」参照
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
ダクワーズ [dacquoise]
ダクワーズは西南フランスの町の名前Daxの形容詞女性形です。Daxは温泉治療地として有名です。フランス菓子ではアントルメのフォン(台)生地で、パリッと作ります。クレーム・オ・ブール(バタークリーム)を塗ってダクワーズを重ねて作ります(写真1)。
小判形のダクワーズは日本独特の製品で、外側がパリッと、中はしっとりしているのが特徴です(写真2)。
ベニエ [beignet]
「ラルース料理百科事典」では、ベニエは「はれものを意味するケルト語からきているという説があるが、baigner、浸すという言葉に由来すると考える方がより適切だろう」と言っています。
ベニエのフライ用の衣は材料により異なりますが、シュー生地やブリオッシュ生地、ゴーフルの生地などを使います。揚げるものは野菜や肉、魚、さまざまです。お菓子に属するものとしては、洋酒に漬けておいた果物の他、クレーム・パティシエールなどのクリームも揚げてしまいます。
シュー生地で作ったベニエは「ベニエ・スフレ」またの名を「ペ・ド・ノンヌ」と言います。詩的で上品な菓名が多い中、「ペ・ド・ノンヌ」、尼さんのおならとは意外な命名です。これはマルムティエ大修道院の修道女アニエスが少量の生地を熱い油の中に落としてしまったという言い伝えからきていると言われています。その後、これでは余りにも品がないとsoupirs de nonne、「尼さんのため息」とも呼ばれるようになりました。
ベニエはクレープと共に祝祭日によく食べられます。クリスマスの40日後、2月2日はローソク、光の祭りである「聖母マリアのお清めの祝日」です。この日、マリアとヨセフはモーセの律法に従って、イエスを神に献げるため、エルサレムの神殿に行きました。この時、シメオンという信心深い老人がイエスを恭しく抱いて「この方こそ諸国の民を照らす光、主の民イスラエルの誇り」と御子を「光」と呼びました。以来、2月2日にはミサの前にローソクの祝別式とローソクの行列が行われ、主とその民の出会いを記念します。カトリックの国ではこの祝別されたローソクをしまっておいて臨終の際、ローソクに灯を点します。
この日、家庭ではクレープ作りが行われ、一部の地方ではベニエを作ります。クレープやベニエの丸い形は光と太陽の象徴と考えられています。
また、ある地方ではベニエは、クレープとともに悪運を避けるために使います。たとえばアルザスではよく卵を産むようにと、1つ目のベニエを雌鶏に与えるのだそうです。
(参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
「教会の聖人たち」池田敏雄(中央出版社))
ガレット・デ・ロワ [galette des rois]
ビュッシュ・ド・ノエル一色だったクリスマスを過ぎるとパリのお菓子屋さんの主役はガレット・デ・ロワに変わります。galetteはgalet(小石)を語源とし、平たい丸い形のお菓子です。軍用ビスケットもgaletteと呼びます(「ラルース料理百科事典」にはフイユタージュで作った四角やリングのガレットの例が見られますが)。ガレットはその形から俗語ではお金、銭を指し、「ガレットがある」といえば財産家、お金持ちになります。
Roiは王様のことで、つまり「王様のお菓子」ということになります。ガレット・デ・ロワはロワール河以南の地方の大部分、特にパリ地域では1月2~8日の日曜日に祝われるEpiphanie(エピファニー)、公現祭を象徴するお菓子です。
エピファニーとは東方の3人の博士─アラビアの王メルキオール、エチオピアの王ガスパール、カルデアの王バルタザール─の前にキリストが現れたことを指し、幼子イエスの誕生が人々に知られることになった日を祝うのです。
この日、人々は友人たちと食事をし、ガレット・デ・ロワやガトー・デ・ロワを切り分けて楽しみます。お菓子の中にはフェーヴと呼ばれる陶製の人形が入っていてこのピースを引き当てた人が王様になります。
フェーヴとはそら豆のことで、古くはそら豆を隠していました。そら豆を引き当てた人は「1日だけの王様」として、実際の上下関係をひっくり返せたのです。このため陶製の人形をフェーヴと呼んだという説があります。また一方でローマ人が一家の息子を指すのに用いたéphèbe、エフェーヴという語の変形であろうという説もあります。
フェーヴは主としてキリスト教から着想を得ていますが、フランス革命の頃はフリージア帽や三色帽章など革命を表すフェーヴが使われました。今ではTGVやコンコルド、コンピューターを模した小さなフェーヴもあるそうです。
ガレット・デ・ロワは中にクレーム・フランジパーヌを絞ったものの他、生地だけで焼いたものもあります。生地もロワール河以北の地方や、地中海地方では発酵生地の王冠形に、砂糖漬けの果物を飾ったガトーが作られます。
(参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
フランス語の散歩道/樫山文男)
サント・ノーレ [saint-honoré]
サント・ノーレ、聖オノレはお菓子屋さんとパン屋さんの守護神と考えられています。彼は660年頃のアミアン(ピカルディー地方ソンム県)の司教で、5月16日にその祭りが行われるのですが、彼の名前がどうしてこのお菓子に付けられたのか、首を傾げたくなると「ラルース料理百科事典」には記されています。一説によると、ある日ミサを行っていた聖オノレが、神の手からパンを授かったという伝説からきているそうです。
サント・ノーレには本来、クレーム・パティシエールとムラングを合わせたクレーム・シブストを詰めていました。シブストとはパリのサント・ノーレ通りにお店のあったお菓子職人シブストからきており、彼が1846年、このクレーム作ったといいます。サント・ノーレはシブストの店のオギュスト・ジュリアンが1863年に創作したのではと思われています。もともとはブリオッシュの生地でしたが、「ラルース料理百科事典」ではパータ・フォンセ(弾力がつかないように捏ねたパイ生地)のレシピを紹介しています。
写真のミッシェル・フサール氏のサント・ノーレは伝統に忠実、パート・フイユテの生地を使い、クレームはクレーム・サント・ノーレ・シブストを絞っています。
(参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
「菓名あれこれ」樫山文男(ガトー誌1980年8月号))
バヴァロワーズ [bavaroise]
バヴァロワとバヴァロワーズ。bavarois(男性名詞)にeが付いただけなので混同しますが、バヴァロワーズは紅茶、シロップ、牛乳、その他を混ぜ合わせた液体状の飲み物です。
18世紀の初め、ドイツ南西のバヴァリア(バイエルン)王国の貴公子たちがパリに住んでいて、彼らはサン・ジェルマン・デ・プレ界隈のカフェ・プロコープに出入りしていました。彼らは紅茶をクリスタル製の瓶に入れ、砂糖の代わりにはこねそう(Capillaire)のシロップを入れるのを好みました。この新しい香りの紅茶を、バヴァリア人(風)の飲み物、la boisson bavaroise(形容詞 bavarois の女性形 bavaroise が付いた)とかla bavaroiseと呼びました。バヴァロワーズは、当時流行の飲み物で、牛乳やリキュール類を加えたり、チョコレート風味のもありました。はこねそうのシロップはコーヒーに入れたりもしました。
la bavaroiseは今ではすっかり廃れ、肺炎や気管支炎に効く飲み物とみなされているようです。バヴァロワとバヴァロワーズは全く別のものなのですが、時として明確に区別しないで用いられています。たとえばミッシェル・フサール氏はBAVAROIS AUX PÊCHESで〈アングレーズ・プール・バヴァロワーズを九分目まで入れる〉と言っています。お菓子の名前はバヴァロワでも生地の状態ではバヴァロワーズなのか、そのへんは定かではありません。
(参考文献:「ラルース料理百科事典」三洋出版貿易株式会社/フランス語の散歩道4(ガトー1981年7月号)樫山文男)
フイユタージュfeuilletage(仏) パート・フイユテpâte feuilletée(仏) パイpie(英)
feuilletéeはfeuille(葉、薄片)に由来し、feuilletageとは生地を薄い層にする(feuilleter)作業のことです。そうしてできあがったパート・フイユテ(pâte feuilletée)、パイ生地そのものをfeuilletageと呼ぶこともあります。
ですからミル・フイユ(Mille-feuille)とは、mille(1000の)+feuille(葉)、つまり薄い層が幾層にも重なった様子を表し、それが菓名になったものです。Mille-feuilleをミルフィーユと発音すると「mille filles、1000人の娘さん」に聞こえます。綴りも発音も似ていますが、お菓子の名前としてはミル・フイユ(Mille-feuille)です。
さて、このfeuilletageを使ったお菓子、バターを使うかどうかを別にして、生地を薄い層にして何枚も重ねて焼くということなら紀元前1600~1200年頃のエジプトで既に行われていたといいます。
「ラルース料理百科事典」によれば、パート・フイユテは、中世以前、古代ギリシャ人も知っていたのは明らかなのだそうですが、パート・フイユテの発明者として、17世紀の画家クロード・ジュレ(Claude Gelée 1600~1682年)説と、コンデ家の菓子係りだったフイエ(Feuillet)説を紹介しています。クロード・ジュレは菓子製造の見習いをしたこともあったようなのですが、彼は発明者というより、単にこの菓子が好きで再流行させたのだろうと推測しています。フイエは料理人カレームが偉大な菓子職人と賞賛した人でしたが、それでもカレームは彼をフイユタージュの発明者とは明言していません。フイエが《パート・フイユテの発明者である》と言っているのは料理人ジョゼフ・ファーブル(1849~1903年)です。
この他、アンリ4世(1589~1610年)時代のヴィユヴィル男爵の料理長ソーピケ(Saupiquet)だという説もあり、諸説入り乱れています。いずれにしても、この時代よりずっと以前、マカロニやほうれん草を詰めたフイユタージュを使った”フルロン”という料理がありましたし、シャルル5世(1364~1380年)の時代にもfeuilletage à L’huile、オイル入りフイユタージュが作られていたと言いますから、本当のところはよく分からないというのが正解のようです。
参考文献:「ラルース料理百科事典」「現代洋菓子全書」三洋出版貿易株式会社/フランス語の散歩道 10 樫山文男
ピティヴィエ [pithiviers]
ピティヴィエは地名です。オルレアネー地方ロワレ県の市の名前で、そこの名産品です。パート・フイユテ(パイ生地)とクレーム・ダマンドで作られ、表面につけた細い線が特徴です。しっかり焼いた表面にロザス(rosace)と呼ばれるバラ形の模様がくっきりと描かれたピティヴィエは伝統的なお菓子の逸品です。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
ザッハトルテ [sachertorte]
ザッハトルテを巡るホテル・ザッハとデメルとの争いはあまりにも有名です。記録によると、ザッハトルテは、オーストリアの政治家メッテルニッヒのシェフを務めていたフランツ・ザッハが16歳の時、1832年に発明しました。メッテルニッヒは甘い物に目が無く、フランツ・ザッハは「彼はいつも不満足なように何か新しいペイストリーを求めて私を煩わした。それで適当な材料を混ぜ合わせてみた」その結果誕生したのがザッハトルテでした。
フランツ・ザッハの息子、エドワルド・ザッハは1876年、ホテル・ザッハを創設しました。ところが1892年、若くして亡くなり、ホテルとレストランの経営は残された妻のアンナが引き継ぎました。
一方、デメルは1786年にルードヴィッヒ・デーネによって創設された宮廷ご用達の菓子店でした。最初のアシスタントだった、クリストフ・デメルが1857年に店の経営を引継ぎ、“the DEMEL”の名は不動のものになりました。デメルはエドワルド・ザッハから製造と《本家ザッハトルテ》と記したプレーン・チョコレート・シールを飾る権利を買い取りました。
ザッハトルテの独占権を主張するデメルに対し、ホテル・ザッハも対抗、争いは法廷に持ち込まれて、7年間も論議されました。オーストリア最高裁判所がホテル・ザッハに《本家ザッハトルテ》の製造販売許可の権利を与える判決を出すやいなや、デメルは《元祖ザッハトルテ》の製造販売を発表しました。本家と元祖、ウイーンに行ったらぜひ食べ比べてみたいものです。
ところで、オーストリアでマイスターの資格を取得した八木淳司氏は「ザッハトルテのポイントは上にかけるチョコレート」にあると言っています。・フォンダンとカカオマスで作るチョコレート・フォンダン、・チョコレート、砂糖、水を112℃まで煮詰めてからマーブル台上で少しずつテンパリングして作るショコラーデングラズール(GATEAUX2000年11月号p.45参照)があり、ドイツで見かける、ガナッシュと洋生チョコレートを混ぜてかけたものはザッハトルテとは別物ととらえられています。
伝統的、古典的な・の方法は手間がかかって量産できず、時代に合わなくなったのでしょうか。ウイーンでも5、6軒の店しかこの方法を取っていないのだそうです。
参考文献:Foods of the World「The Cooking of Vienna’s Empire」by Joseph Wechsberg and the Editors of TIME-LIFE BOOKS
Sacherホームページ, Demelホームページ, kidlaneホームページ
マジパン [marzipan]
挽いたアーモンド、砂糖、卵白で作ったペースト状のもの。焼き菓子の材料に用いられます。また可塑性があるので野菜や果物を本物そっくりに形作ったりします。
「現代洋菓子全書」によれば、マジパンの起源は非常に古くまで遡ります。古代ギリシャの地理学者ストラボン(B.C.65-A.D.24)は「北部メソポタミアに住むメディア人は果実や木の実を食べて暮らしていた。彼らは果物を干して粉にしたものを利用し、練ったアーモンドでパンを作っていた」と言っています。実際、中近東にはアーモンドや果物を使ったパンが今でも残っているのだそうです。
また、マルツィパン(Marzipan)と呼ばれるようになったいきさつを次のように紹介しています。これは1940年に発表されたオランダの言語学者Kluyverの説で、クルイヴェールによれば「十字軍が活動していた頃、東地中海沿岸諸国でアラビア語のマウタバン(mauthaban)という言葉が刻印された銀貨が流通していた。やがて高価な医薬品を入れる木の箱も銀貨と同様マウタバンと呼ぶようになった。この箱は13世紀になるとアーモンドと砂糖、ローズ・ウォーターで作った砂糖菓子の流通容器として使われるようになった。そして箱の呼び名がいつしか中身の名前とすりかわっていった」というものです。
「ラルース料理百科事典」では、小説家のバルザック(1799-1850)が「イスダン風のマスパンを世に宣伝しようと菓子屋を開いた」という嘘とも真ともつかない話を紹介しています。マスパン(massepain)とは「アーモンド、砂糖、卵白で作るパティスリー。香りや色を付けたマカロンに似たプティ・フール」、即ち、マジパンです。この頃、Issoudunのマスパンが評判だったのでしょう。別の文献には南仏のエクス・アン・プロヴァンス、シシリー島、スペインのカスティリアの地名も挙げられており、高価だったマスパンが一般の人に手の届くものになったのが分かります。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「現代洋菓子全書」(三洋出版貿易株式会社)
クロカンブッシュ [croque-en-bouche]
小さく焼いたシューにクレーム・パティシエールを詰め、砂糖を煮詰めたカラメルを付けて積み上げます。口の中で(en-bouche)、カリカリ(croque)とあめが溶けていくお菓子です。土台にヌガティーヌを使い、ドラジェやあめ細工を飾って仕上げます。しばしば見受けられるのがピラミッド状に積み重ねた上に新郎新婦が飾られている結婚式用のクロカンブッシュですが、フランスでは婚約式、洗礼式などさまざまなお祝いの席に欠かせません。
パーティーの終わりに切り分けて出席者で楽しみます。
ピエス・モンテ [pièces montées]
piècesとは部分とか小片のこと。部分や小片をmontéesする 、つまり組み立てたものがピエス・モンテです。
現在、ピエス・モンテというとパスティヤージュ(粉砂糖、卵白、ゼラチンあるいはトラガント・ゴムを練って作ったもの)にあめ細工を施した抽象的なデザインの大型の作品を連想します。
『ラルース料理百科事典』によれば昔の料理のピエス・モンテは食べられないものを濫用した装飾品で、巨大な建築物風に作られていたのだそうです。パティスリーの分野でも19世紀以来、装飾用の菓子が盛んに作られました。
ピエス・モンテは公式の食事や宴会のメインですから、その会の目的に沿ったテーマで形作られます。竪琴、ハーブ、コルヌ・ダボンダンスと呼ばれる豊穣の角、籠一杯に盛られた収穫物、白鳥、地球儀や滝、建築物では寺院、野外音楽堂などがしばしば取り上げられ、これらをリアルに造形し、高く積み上げて飾り立てます。
素材はパスティヤージュやヌガティーヌ(アーモンドとカラメル化させた砂糖で作る)、チョコレート、シューなどを用います。私たちにおなじみのピエス・モンテといえばウエディング・ケーキやクロカンブッシュでしょう。
参考文献:「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
ビュッシュ・ド・ノエル [bûche de Noël]
フランスではクリスマス・イヴの日、遠く離れていた家族が一同に集い、食卓を囲んでイヴを祝います。食事のあと、真夜中のミサまでの時間、それぞれが太い薪を持って暖炉に集まり、薪をくべて暖を取ります。この特別な太い薪をビュッシュ・ド・ノエル(bûche de Noël)といいます。今でも一部の土地では行われているそうですが、都会暮らしではこの伝統も廃れてきました。
この行事をお菓子で表現したのが菓子職人であり料理の歴史家でもあったピエール・ラカン(1836-1902)でした。ビュッシュ・ド・ノエルが盛んに作られるようになったのは1870年以降のことで、今ではクリスマスが近づくとフランスのお菓子屋さんの店頭はビュッシュ・ド・ノエル一色に染まります。
ビュッシュ・ド・ノエルはジェノワーズを巻いてクレーム・オ・ブールを塗り、樹木の表面のように筋をつけます。きのこ(ムラング)や柊木の葉(パート・ダマンド)が飾られ、苔むした樹には蔦(クレーム・オ・ブール)が絡み、雪(粉砂糖)もちらついています。イヴの夜を彷彿とさせるこうしたトラディショナルなビュッシュ・ド・ノエルも、最近はパティシエの創意工夫で、ムースやアイスクリームなどさまざまなタイプのものが作られるようになりました。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
エクレール [éclair]
稲妻、閃光、ひらめきを意味します。食べにくいので電光石火に口に入れるというのでエクレールと名づけられたと言われています。シューの生地を棒状に絞って焼き、ヴァニラやチョコレート、コーヒーで風味をつけたクレーム・パティシエールを絞り、同じ香りをつけたフォンダンでグラッセします。初めてこのお菓子を作ったのはアントナン・カレーム(1784-1833)といわれています。彼はフォンダンではなくカラメルをかけたのだそうです。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
パティスリー [pâtisserie]
パティスリーとは(1)粉の生地をもとにオーブンで焼く菓子、(2)お菓子を作る技術、(3)菓子を作って販売する場所、つまり菓子店を意味します。
お菓子を作る人はパティシエ(pâtissier)<男性>であり、パティシエール(pâtissière)<女性>です。パティスリーの起源は古代エジプトまでさかのぼります。エジプト人はバビロニア人からパンを焼く技術を学びました。紀元前1175年頃のテーベ(古代エジプトの首都)にあったラメシス2世国王の宮殿製パン所を描いた記録もあります。
古代のギリシャ人はそば粉、油、はちみつで1種のフリッターを作っていました。トリオン(trion)という1種のタルトもありました。ディスピュルス(dispyrus)は平たく焼いたケーキを熱いうちにワインに浸して食べるものでした。
2枚の鉄の板にはさんで焼いたオボリオス(obolios)は、フランスのウーブリ(oublies)の原形と考えられています。中世のフランスではこのゴーフルの1種のウーブリがお菓子屋さんの主な製品でした。このため、お菓子屋さんはウブレイユール(oubleyeurs)と呼ばれていました。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
「現代洋菓子全書」(三洋出版貿易株式会社)
プティ・フール [petits fours]
#gallery-1 { margin: auto; } #gallery-1 .gallery-item { float: left; margin-top: 10px; text-align: center; width: 25%; } #gallery-1 img { border: 2px solid #cfcfcf; } #gallery-1 .gallery-caption { margin-left: 0; } /* see gallery_shortcode() in wp-includes/media.php */一口で食べられるような小さなお菓子がプティ・フール。foursはオーブンですが、なぜ「小さいオーブン」なのでしょうか。有名な料理人アントナン・カレーム(1784-1833)はたくさんのプティ・フールの作り方を書いています。彼によれば大型のアントルメ用パティスリーを焼いた後、à petit fours、火を消して温度の下がったオーブンで焼いたので「プティ・フール」と呼ぶようになったのだそうです。
「ラルース料理百科事典」は(A)マカロンやサブレ、チュイールなどの小さい「ガトー・セック」と、(B)フォンダンをグラッセした「フール・グラッセ」に大別しています。さらにコンフィズリーの分野に属する、果物を模して糖衣をかけた(C)「フリュイ・デギゼ」もプティ・フールに含まれます。
プティ・フールにはプティ・フール・セック(petits fours secs)、プティ・フール・フレ(petits fours frais)、プティ・フール・グラッセ(petits fours glacés)、プティ・フール・デギゼ(petits fours déguisés)、プティ・フール・サレ(petits fours salés)などがあります。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
マカロン [macaron]
マカロンはイタリアで考えられたと言われています。これがフランスにわたり、フランスの食通たちのお気に入りになりました。マカロンはフランス各地で作られ、17世紀にはすでにナンシーのマカロンが評判をとっていました。表面に細かいひび割れのはいった「マカロン・ド・ナンシー」は「スール・マカロン」(Soeurs Macaron)、修道女のマカロンという名で有名です。
18世紀、フランスでは多くの女子修道院でマカロンを作っていました。ムランの聖母訪問会の尼僧たちもマカロンを作っており、これは他の砂糖菓子とともにその地方の名産品でした。1748年、王太子と王太子妃はムランにあるサント・マリー聖母訪問会の修道院を訪れました。この時、市長は訪問者たちをビスキュイ、マカロン、砂糖菓子などでもてなしたといいます。
何百種類とあるマカロンの中で現在の主流はマカロン・リスです。リス(lisse)とは“すべすべした”という意味を表します。マカロン・リスはパリで作られたことから別名「マカロン・パリジャン」ともいいます。今、マカロンというと一般的にはこの「マカロン・パリジャン」をさすようになりました。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
ブラン・マンジェ [blanc-manger]
冷たいデザートの1つ。直訳すると「白い食べ物」。アーモンド・ミルクと砂糖をゼラチンで固め、ラムやキルシュを加えて作ります。アーモンド・ミルクは、皮を剥いたアーモンド(ごく少量ビター・アーモンドを使う)をできるだけ細かく砕いて挽き、冷水を加えて伸ばし、これを絞って抽出して作ります。
美食家のグリモ・ド・ラ・レニエールによればブラン・マンジェの起源はラングドック地方にあると言います。彼によれば「モンペリエの素朴な料理女たちの作るブラン・マンジェはすばらしいもので、パリで作られるもので口にあうものはめったにない」のだそうです。彼は「フランス革命前のほんの2、3人の料理人のみがこれを巧みに作るという評判だった。革命以来その秘訣が失われることを懸念」していましたが、その心配は杞憂に終りました。
フランスの有名な料理人アントナン・カレーム(1784-1833)は、『甘味アントルメ論』の中で「(ブラン・マンジェは)きわめて口当たりがよく、しかも充分に白くなければならない。この2つの特質(を備えていることはめったにないが)ゆえに好まれるのだろう」と言っています。
モカ・コーヒー入りやチョコレート、ピスターチ、イチゴ、ヘーゼルナッツ、泡立てたクリーム入りなどさまざまなヴァリエーションが可能とカレームは述べていますから、必ずしも白い色にとらわれることはないようです。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
ムラング [meringue]
「ラルース料理百科事典」によると、卵白と砂糖で作った小さな菓子、ムラングはメリニンゲン(Mehrinyghen)のスイス人のお菓子屋さんガスパリーニ(Gasparini)が、1720年に発明したそうです。実際にはこれ以前にも製菓に卵白は使われていましたので厳密な意味で発明といえるか疑問ですが。このメリニンゲンという小さな町がどこにあったのか特定されていません。ドイツのザックス=コブール=ゴーダ公国(Saxe-Coubourg-Gotha)、あるいはスイスのマイリンゲンと各説あります。
最初にフランスで作られたムラングは、ロレーヌ地方のナンシーでポーランドのスタニスラス王(1677-1766)に出されたといいます。王の娘、マリー・レクチンスカ(1703-1768)はフランスのルイ15世の妃になった女性で、彼女もムラングが大好きでした。
さらにルイ16世の妃、マリー・アントワネット(1755-1793)もムラングに目がなく、彼女はトリアノン宮殿で自らムラングを作ったといいます。
まだ絞り袋が発明されていなかった19世紀の初めまで、ムラングはスプーンですくって作っていました。
ムラングには (1) ムラング・オルディネール、(2) シロップを注いで作るムラング・イタリエンヌ、(3) 湯煎にかけて温めて作るムラング・シュール・ル・フーがあります。この他、ダクワーズやジャポネ、パータ・シュクセ、パータ・プログレもムラングの1種です。
参考文献:「ラルース料理百科事典」(三洋出版貿易株式会社)
クレーム・シャンティイ [crème chantilly]
泡立てたクリーム。クレーム・フエッテ(crème fouettée)ともいいます。泡立てたクリームをクレーム・シャンティイと呼ぶようになったのはルイ14世(1638-1715)の頃のこと。
ヴォー・ル・ヴィコント城にヴァテルという「メートル・ドテル」がいました。「メートル・ドテル」とは給仕長のことですが、かつては王侯貴族の屋敷の司厨長や執事長であり、家事全般を取り仕切っていました。ある夜、城主はルイ14世を招いて華麗な宴を催すことにしました。ヴァテルはルイ14世を驚かせようと、あれこれ思いを巡らせ、新しい作品を考案しました。クリームに砂糖を入れて泡立て、ムース状にしたのです。これこそ後にクレーム・シャンティイと呼ばれるようになった泡立てたクリームですが、この時、まだ名前は付いていませんでした。しかも残念なことにこの宴は中止になってしまったようです。
後日、ヴァテルはパリの北50Kmのところにあるシャンティイの城に転職しました。シャンティイの城主のコンデ公がヴァテルのクリームの噂を聞きつけ、彼をスカウトしたようです。ヴァテルはルイ14世を招く宴席でこのクリームを披露しました。美食家のルイ14世も初めて食べるこの泡立てたクリームに驚嘆したに違いありません。
泡立てたクリームをクレーム・シャンティイと呼ぶようになったのにはこうしたいきさつがあったと伝えられています。
参考文献:「食の大地フランス」宇田川悟著(柴田書店)1990年発行
フィナンシエ [financier]
焦がしバターの香りを特徴とする長方形の焼き菓子。フィナンシエとは財政家とか金融家を意味します。長方形の形と色が金の延べ棒を連想させ、この名が付いたとも言われています。
1890年に刊行されたピエール・ラカンの著の「フランス菓子覚書」には、証券取引所近くのサン・ドゥニ通りに店を構えたラヌという菓子職人が、食いしん坊のフィナンシエたちが服を汚さずにすばやく食べられるようにこのお菓子を考案したと記されています。フィナンシエも、最近は形も味もさまざま。いろいろなヴァリエーションの焼き菓子がフィナンシエとネーミングされています。
参考文献:「名前が語るお菓子の歴史」ニナ・バルビエ/エマニュエル・ペレ著 北代美和子訳(白水社)
ムース [mousse]
ムースとは料理やお菓子の場合、泡を意味します。ピュレ状の材料やクリーム状の卵、砂糖、牛乳などに、泡立てた生クリームやメレンゲ、立てて空気を含ませたバターを加えて混ぜたのがムースで、泡のようにフワッとしたクリームやお菓子を指します。
ムースとバヴァロワは似ているようで違いもあります。バヴァロワは泡立てた生クリームを主に、ゼラチンで保形します。テイクアウト用のムースはゼラチンで保形するタイプがほとんどですが、ゼラチンの使用量はバヴァロワに比べて少なめです。ムースの基本は気泡で支え、形を保つところにあります。
ムースは軽いお菓子を求める現代人の嗜好に合い、すっかり定着しました。ムースの普及は冷凍技術の進歩よるところが大きく、洋菓子の世界に変革をもたらしました。
バヴァロア [bavarois]
最近はバヴァロワという名前の洋菓子を見かけることが少なくなりましたが、やはり冷たいお菓子の代表格でしょう。
バヴァロワの名前はドイツのバヴァリア地方(ドイツ語ではバイエルン地方)に由来しますが、何故、この名前がついたか定かではありません。バヴァリア地方の貴族の家のフランス人料理人が作って命名したという説もありますが、はっきりしません。
作り方は卵黄、牛乳、ヴァニラ、砂糖で作ったクリームか、あるいは果物のピュレにゼラチンを加え、泡立てた生クリームと合わせます。