トピックス

「洋菓子を食べると太る」など、洋菓子に使われている材料には誤解されているところがありますが、決してそんなことはありません。製菓原材料には体にいいものがたくさんあります。その特性をご紹介しましょう。

砂糖を誤解していませんか

砂糖には「肥満の原因」というマイナスイメージがあります。でもこれはまったく根拠のない話。砂糖に限らず、消費する以上にカロリーを摂取した時に、余ったエネルギーが脂肪となって蓄積されるのが肥満の原因なのです。砂糖のカロリーはご飯の炭水化物と同じで100g当たり約400kcalと、特別に高いというわけではありません。

砂糖はご飯と同じ糖質で、消化されてブドウ糖として吸収されます。ブドウ糖は身体のエネルギー源になる重要な栄養素です。特に脳にとってのエネルギー源はブドウ糖だけです。砂糖は消化吸収が早く、失われたエネルギーをすぐに回復させます。疲れた時に甘いものが欲しくなるのは自然な要求なのです。勉強や仕事、車の運転で疲れた時、砂糖を含んだお菓子や飲料は即効性のあるエネルギー源として効果があります。

チョコレートは健康食品

チョコレートの主原料であるカカオは、中南米で栄えたマヤ文明やアステカ文明の遺跡によって、紀元前から栽培されていたことがわかっています。古くはカカオ豆を炒ってすりつぶし、香辛料や香草などを混ぜた飲み物でした。この飲み物は疲労回復、胃腸病、肝臓病など万病に効く薬として使われていました。人々は経験的にチョコレートが体によいものだとわかっていたのです。

最近、注目されているのがチョコレートに含まれるポリフェノールです。ポリフェノールは、がんや動脈硬化など様々な病気の原因とされる活性酸素の働きを抑えます。赤ワインやお茶、ブルーベリーにもポリフェノールは含まれていますが、チョコレートには他の食品よりはるかに多量に含まれていることが確認されています。さらにチョコレートは食物繊維やミネラルを豊富に含むバランス栄養食品です。またチョコレートの香りは集中力、記憶力を高めることがわかっています。チョコレートは昔から「虫歯の原因」などと言われてきましたが、実は多くの健康効果があることが確かめられているのです。

これから2ヵ月に1回、ベルギー在住の宮崎真紀氏の連載エッセー「ベルギーの街角から」を掲載いたします。

宮崎氏は現在ベルギー在住の日本人向けの情報誌「ボナ・ペティ」の編集長として活躍中で、その経験を生かしてベルギーの製菓事情についてお書きいただきます。第1回目はベルギーのバレンタイン事情についてです。

一年を通じて最もロマンティックな行事といえば、2月14日のバレンタインデーが挙げられます。

「聖バレンタイン」デーの起源

一般的に伝わっているのが、ローマ皇帝の逆鱗に触れ、死罪となったカトリック司教バレンタインの説です。
残忍で知られるローマ皇帝クラウディウス2世は、士気が落ちるという理由でローマ兵の結婚を禁止していました。しかし兵隊たち、特に外国との長い戦争に駆り出される若い兵士の不満はつのる一方でした。そこでバレンタイン司教は、皇帝の意に背き、内緒で多くの兵士の結婚を許可するという大胆不敵な行動をとりました。けれどもそれが発覚。273年2月14日、死刑に処されてしまいます。

一方、この早春の時期、ローマでは女神ユノー(ジュピターの妻で女性と結婚生活の守護神)の祭りが盛大に行われるのが習慣でした。春の到来を喜び、人々は飲めや歌えの大騒ぎをします。このユノー祭最大の呼び物は「くじ引き」でした。縁結びの神ユノーにちなみ、くじで引き当てた乙女と祭りの間恋人のように振舞えるという趣向に、ローマ中の青年たちが沸き立たないはずはありません。

当時、ローマ人の多くは神話上の神の絶対的な崇拝者で、キリストを信じません。この傾向は田舎に行けば行くほど強く、カトリック教会の布教は困難を極めていました。ですから、教会は以前から特にユノー祭の熱狂的な人気を苦々しく思っていたのです。

この様な状況の中で起きた司教事件を教会が見逃すはずはありません。信者確保の千載一遇のチャンスとばかりに、司教処刑を利用することにしました。そして、ローマ人が唯一無二と信じている神の祭り(キリスト教徒にとっては異教の祭り)にこれを絡ませ、うまくすり替えてしまったのです。498年、ゲラシウス教皇にいたっては、彼の殉教した2月14日を「愛の日」と宣言したほどです。但し、「乙女のくじ引き」は違法だと付け加えるのを忘れませんでしたが。

ベルギーのバレンタインデー

日本では大人から子供まで知らない人はいないほど有名になり、この日はチョコレートの売り上げが最高潮に達すると云われていますが、チョコレートの本場ベルギーでは少し様子が違います。

20世紀初頭から、2月14日にカードや写真を送ることが人々の間で流行り始めました。それが、第二次世界大戦後になると、カードの代わりにプレゼントの交換へと次第に変わっていったのです。もともとバレンタインデーのプレゼントは、親や友人などへ日ごろからの愛情や感謝を込めて贈ったもので、恋人同士だけに限った行事ではありませんでした。

そして、現在一般的には男性から女性にプレゼントをします。贈りものも様々で、カードを添えた一本の赤いバラや香水といったロマンティック型から、妻が前から欲しがっていた最新のコーヒーメーカーや、恋人に似合いそうなセーターなどという現実的なものまであります。

しかし、概してこの日レストランに行くことが多いようです。近所のイタリアンから有名レストランの豪華ディナーまでと懐具合による差はありますが、レストランはまさにかきいれ時。ミシュランの星付きレストランなどは何ヶ月も前から予約で埋まります。レストラン側も事前にバレンタインデーの特別メニューを常連に送ったり、有名ミュージシャンのライブ提供などと勧誘に余念がありません。また、友人を招待した自宅での食事の時などは必ずシャンパンが登場します。

日本では女性から男性にチョコレートを贈り愛の告白をするという現象がいつの間にか定着、義理チョコなどという訳の分らないことまで流行っていますが、このように、本場ベルギーではチョコレートがバレンタインのプレゼントとして活躍することはありません。ではどんな時にチョコレートがベルギー人の生活に登場するのでしょうか。食後のコーヒーやアフタヌーンティー(こちらではコーヒーですが)の時、病院の見舞いや親を訪ねる時などが挙げられます。因みに、通常プラリヌは大人の食べ物で、子供には板チョコなどが与えられます。

ところが、最近では、この時期になると町中のショコラティエのショーウィンドーにはハートが溢れ、有名店は毎年新作のプラリヌを発表するようになりました。これは、チョコレートには媚薬として効果があると昔から信じられているため「チョコレート=恋愛」というイメージを定着させようとしているのだと思います。これが商業主義とも、世の中が贅沢になってきているとも批判されますが、実は8世紀も前に起こったバレンタイン司教の原点に戻ってきているのかもしれません。

ベルギーのショコラティエ

美味しさでその名を世界に轟かせるベルギーチョコレート。カカオの木が育つわけでもないのに、ベルギーで作られるチョコレートがなぜ美味しいのでしょう? それはショコラティエ達がカカオの産地別の風味をしっかり把握していることと、収穫年による異なる味わいを的確に察知しブレンドする才能に長けているからに他なりません。ワインやシャンパンもブレンドが鍵であるのと同様、ベルギーチョコレートの繊細な味は彼らの感性のあらわれなのです。グルメの国に相応しく、各々こだわりの「自分の味」を持っています。

有名店のバレンタイン拝見

サブロン広場
  • ヴィタメール:希望すれば、小さな箱入りのハートのチョコをメッセージ付きで相手に郵送してくれます。
  • マルコリーニ:金箔を散らした大きいハートのチョコを割るとプラリヌが現われます。
グランプラス広場
  • ガレー:スタイリッシュなデザインの箱を開ければ、小さいハートのプラリヌで溢れる大きいハートのチョコが入っています。
  • ゴディヴァ:贈る相手により、ハート型、楕円形そして流行りの平たい小箱などが選べます。
  • ノイハウス:この週の間、ショコラティエが主な店にスタンバイ。客の希望の名前をチョコレートでプラリヌの上に書いてくれます。
アントワープ
  • デルレイ:日本上陸しんがりは、アントワープの有名店デルレイ。04年11月、銀座に店をオープンしました。
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ベルギーの復活祭は黄色で始まった

ベルギーの復活祭は黄色で始まった

“4月でもウールを忘れずに。5月になったらお気に召すまま”という諺通り、4月になっても肌寒い日が続きなかなか春が来ないベルギー。でも町のショーウィンドーに卵やひよこがあふれる復活祭ともなると、誰の心も気分は春です。今年の復活祭は例年になく早い3月27日、黄色いレンギョウの花と共に始まりました。折しもこの日、時計が夏時間に切り替わり街は急に光で溢れました。ところで、復活祭には卵がつきものですが、何故でしょう?

世界は卵から

太古の昔から卵は「生命」「繁殖」「宇宙」の象徴でした。インカ帝国の伝承によると、全ての神々は卵から生れ、その神が地上に送った金の卵からは尊い人、銀の卵からは女性達、その他の者は銅の卵から生れたそうです。中国では卵黄は大地、卵白は空と天体を表し、宇宙は卵から起こったと信じられていました。また、5千年も前からペルシャには、自然界の新生を祝い春になると卵を贈り合うという習慣がありました。

さて、復活祭とは、イエス復活の奇跡を祝うキリスト教の最も重要な祭りですが、復活祭と卵は当初特に関係はありませんでした。卵が復活祭に登場するようになったのは四旬節の断食にまつわる、というのが通説です。

初期カトリック教会はその布教のために大昔からの伝承や信仰を活用し、厳しい冬が終わり新しい生命が誕生する春の象徴である卵と、イエスの復活を重ねました。さらに、四旬節の期間は卵を禁食、口にできるのは聖日曜日の大ミサの後としました。しかもその卵はイエスが磔刑に処された日(聖金曜日)に産み落とされたものと決めたのです。やがて、歴代のフランス王達も復活祭の大ミサの後に祭壇の卵を国民に分け与えるなど、徐々にキリスト教徒の中に卵が象徴として定着して行きます。語弊を恐れずに言えば、脇役の卵のお陰で「キリストの復活」という考えがスムーズに人々の間に浸透していったのです。こうして復活祭には卵が欠かせないものとなりました。

今日のイースター

復活祭の朝、庭の茂みの卵を夢中で探した楽しい子供時代の思い出がないベルギー人はいません。中世から伝わるこの楽しい行事のルーツ、実は教会がカーニバルから復活祭までの40日間、卵の消費を禁止したため腐るほど余ってしまった卵をさばく手段だったのです。

現代の卵探しは、色を付けたゆで卵もありますが、圧倒的に人気があるのはチョコレート製です。この時期、チョコレート屋の店先がチョコレートの卵や鶏などであふれるのを見ると、彼らの年間売り上げの半分が復活祭だというのも肯けます。大手チョコレート会社は毎年趣向を凝らしたものを発表。今年は某メーカーが何百もの小さな卵を詰めた高さ3メートル以上の巨大なチョコレートの卵を発表したことが話題になりました。また、街角の花屋、薬局、スーパーなども色とりどりの卵で飾られ、街中が復活祭一色になります。

家庭では

共稼ぎの多いベルギーでは、学校が2週間の復活祭休暇に入ると、子供たちはお爺さんやお婆さんと休みを過ごすことが多いようです。ですからこの時期になると美術館でも地下鉄の中でも孫を連れたお年よりの微笑ましい光景をよく目にします。

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聖日曜日には親戚中が集まり、敬虔なカトリックの家庭では子供もいつものジーンズでなく少しお洒落をするようです。お昼近く、子供達の待ちに待った卵探しが始まります。もちろん卵は親が前日にこっそり置くのですが、この日のために6キロ分の卵を用意したなどと聞くと、さすがチョコレートの国の人と感心させられます。茂みの中や木の上と親も隠す場所に工夫を凝らすので、探す子供達も真剣です。子供が見つけた卵は、ローマから鐘が運んできた祝福された卵だと説明されます。面白いことに、鐘の代わりにアルザス地方では野うさぎ、チロル地方では雌鳥が、そしてスイスではカッコウが卵を隠すと云われます。

アッチだ、コッチだ、アッタ! 大人も混じっての嬉々とした卵探しが終わると昼食です。この日のご馳走には羊の腿肉や子羊が欠かせません。子供の楽しみが卵探しなら、この定番料理が大人の楽しみです。そしてデザートはもちろんニ・ド・パック(鳥の巣を模ったケーキ)。それまでの断食で好きなものを断っていた人もこの日からはおおっぴらに食べられます。もっとも、断つといっても、シャンパンやチョコレート断ちなどですが。

庭のない人や金銭的に無理な人はどうするのか? と気になるところですが、そこはカトリックの国、市や教会が0歳から12歳までなら誰でも参加できる無料の卵探しゲームを森や公園で主催してくれます。この風景はテレビや新聞でも報道され、何十人または何百人の子供達が籠や袋を持って一斉に卵探しに散らばる様子は微笑ましいベルギーの風物詩です。これを見ると我々でも春近し、と感じます。

5月に入ると人も草木も一気に「初夏モード」に切り替わるベルギー。庭の梨やサクランボの木は一斉に白い花を咲かせ、街角や公園の花壇そして家々の窓辺にも色とりどりの花が溢れ、人々もそれに負けずとばかりにカラフルな軽装になります。

緑が多いブラッセルには公園も多く、昼休みになるとオフィス街の全員が公園に大移動したかと思うぐらいの賑わいぶりで、青空の下でのサンドイッチの昼食後、水着なしでもなんのその芝生で日光浴に励んだり、読書をしたりなど、一年の中で一番気持ちの良い季節を謳歌します。

初夏は女性の季節

爽やかな初夏、この時期は女性にとって二重に嬉しい季節でもあります。なぜなら、「秘書の日」に始まり、「スズランの日」、「母の日」と、大事にされる日が続くからです。

秘書の日のプレゼントは花束やチョコレート。チョコレートと言ってもこの時期限定のもので、チョコレート製の植木鉢にマジパンの花が咲いているものや花の形のプラリヌなど、いつものプラリヌとは異なります。でも、これらのチョコレートをたくさん買いこんでいる男性を見ると、何となく日本の義理チョコという感じがしないでもありません。

5月1日にスズランを贈るという習慣は中世から既にあり、春の訪れを告げるスズランの花をこの一年の「幸運のお守り」として女性に贈るというものです。この日だけはスズランの小さな花束が街角のいたるところで売られています。この香り高い可憐な花は女性をその日一日中とても幸せな気分にしてくれます。が、私は貰うと複雑な気持ちになります。と言うのも、ほんの数本のスズランの花束がこの日ばかりはバラ数本より高い値段のうえに、もう少し待てば我家の庭にイヤというほど咲くのですから。

5月といえば母の日。幼稚園から小学校中学年までの子供達は学校で先生の指導のもと工作造りや詩の暗唱に励みます。小さい子の場合、例えば、野原で摘んだ花や草を押し花にし、『たいしたものではありません。ほんの少しの野の花だけど心を込めて摘みました。母の日おめでとう』と、カードに幼い字でつづります。こうやって小さい頃から洗脳されているせいか、大人になっても母の日にはかなり気合が入ります。今年はエレガントでシックなお母さんのためにチョコレート製のハイヒールや帽子が登場しました。ところが、父の日は母の日と比べいまひとつ盛り上がりに欠けるようです。でも、今年はネクタイを象ったケーキを見かけました。お父さんの地位が向上した証拠でしょうか。

コミュニオン

5月の週末になると、白い服で着飾った7歳前後の子供達をよく見かけます。これはプルミエール・コミュニオン。つまりキリスト教における初めての聖体拝領(聖餐式)に参加する子供です。ですからこの時期、どこのお菓子屋のショーウインドーにもこれに関するお菓子が勢ぞろいします。キリストのシンボルである白い子羊やマリアまた聖書などが主なモチーフです。

ある時、お菓子屋の前で熱心にそれらを眺めている親子に出会いました。聞くと双子の子供が次の週末に初聖体を受けるので、昼食会の席でのお菓子の注文に来たそうです。キリスト教徒ではない私ですが、その席に呼ばれることになりました。

そして白い洋服を着た子供達がぞくぞくと教会に集まりました。神父の話を神妙に聞いた後が聖体拝領です。親に付き添われた子供が初めて神父から聖体を拝領するという、キリスト教にとってはとても大事な儀式とのことでした。その後、家に帰り親戚中が集まっての大パーティとなりました。子供達はゴッドファーザー、ゴッドマザーはもちろんのこと集まった全員の人からプレゼントを貰っていました。この日はこの子供にとって記念すべき日でそれを祝うのは分りますが、それにしても、招待する方のお披露目の立派さにも、豪華なプレゼント攻めにも驚ろかされました。後日他の人に聞くと、コミュニオンを口実にした単なる見得の張り合いだと苦笑していましたが真実は不明です。

季節の中で一番快適な夏になりました。湿気のないカラリとした晴天と夜の10時頃にやっと薄暗くなるという日が続く、ベルギー人が待ち焦がれた季節。夏の朝市は彼らが特に好きなところです。買い物籠片手の人でごった返し、ところ狭しと並ぶ屋台には新鮮な野菜や果物。見て廻るだけでも楽しいものです。この時期ベルギー人の女性がセッセと作るのがジャム。サクランボには郷愁があるのか特に人気があります。種を抜くのが面倒なサクランボ用にホッチキスのような簡単な種抜き器具があり、これとペクチン入りの砂糖そしてジャム用のガラスの瓶があれば簡単にジャムが作れます。

このジャム作りの三種の神器、シーズンになるとどこのスーパーにも山積みで売り出されます。昔は食べきれない果物を保存するためにたっぷりの砂糖でジャムを煮ましたが、世界的なヘルシー志向のため、砂糖を加減したマイホームジャム作りや有機栽培の果物を使ったコンポート系のジャムに人気があります。

ベルギーの夏

7月と8月は音に聞こえたバカンスの時期。灼熱の太陽を求めてヨーロッパ中が南へと大移動します。猫や犬などのペットも引き連れての出発です。

バカンス到来を実感するのは、道端の物乞いのジプシーがなぜか忽然と姿を消した時です。50%オフから始まり最後には70%オフなんてことになるバーゲンセールの後、民族大移動が始まります。通りを行く車の数も少なく、土曜日でもスーパーはガラガラ、メトロの中は地図を持った観光客だけという状態になります。ところで、チョコレートの国ベルギーですが、夏に売れるものはバーベキューセットとアイスクリームと相場が決っています。パティスリーの店の前にはアイスクリーム売りのワゴンが出され、大人の男女でもこの時ばかりは子供に戻ったように、何の味にするかなど楽しそうに話しながらの順番待ち。その姿は微笑ましくあり愉快でもあります。

有名パティシエも毎年いろいろな味のアイスクリームやシャーベットを競い、今年もパッションフルーツやマンゴーなど熱帯地方の果物に人気があるようです。果物といえばこの季節ケーキにふんだんに使われるのが赤い実のフルーツやベリー類。イチゴはもとより赤スグリ、ラズベリー、そしてブラックベリーやビルベリーなど自然の恵みが溢れています。まさに夏真っ盛り。

ベルギー人の多くは7月にバカンスに出かけます。飛行機あるいはキャンピングカーで外国に行くか、北海沿いのリゾート地や丘陵地帯のアルデンヌ方面への長期滞在型バカンスが多いようです。北海の海は我々日本人にとっては少々冷たい水ですが皆元気に泳ぎ、子供達は砂の城を作ったり、北海名物のグレーの小エビを網ですくったりと楽しそう。おやつはもちろんゴーフルやクレープ。カフェーでも食べられますが、屋台のゴーフル屋で焼きたての熱々ゴーフルを紙に挟んでもらい歩きながら食べるほど幸せなことはありません。ベルギー人で子供の頃ゴーフルを食べなかった人はいないと断言できるくらい、何時でもどこの売店にもたくさんの人の列ができています。

そして彼らが何週間かのバカンスから戻って来る頃、どの町でも移動遊園地が始まります。食物の人気ナンバーワンがベーニエ。小麦粉と水、卵と砂糖などがタネです。それを丸くして油で揚げ粉砂糖をふりかけたものか、リンゴやバナナにこの衣をつけて揚げたシンプルなものですが、素朴な美味しさは移動遊園地の永遠の定番です。ゴーフルも人気があります。冬に食べる熱々のリエージュ風ゴーフルも格別ですが、夏はなんといってもブラッセル風ゴーフル。

リエージュ風のゴーフルは少し前の日本で「ベルギーワッフル」と言う名でブームを起こしたのでご存知の方も多いはずですが(本場の方がもっと美味しい)、ブラッセル風のゴーフルは大きい長方形で、サクサク、カリッと、頼りないほどの軽い食感が特徴です。粉砂糖をふりかけるだけの超シンプルなもの、タップリの生クリームに果物を飾るものなどありますが、とにかくアッと言う間に胃に収まり、お代わりが欲しくなるほどです。

楽しいバカンスが終わりに近づく8月の最終の週は、新学期に向けて親子ともランドセルやノートなどの学用品の調達に忙殺されます。宿題もない丸2ヶ月間のバカンスは勉強を忘れるという理由で、最近では夏休み中の自主的な勉強帳が売れ行きを伸ばしているとか。そんなことは当たり前と思うのは勤勉な日本人。こちらでは、せめて夏休みぐらいは勉強から開放しろ、と言う意見が大多数のようです。夏休みは畑に出て収穫の手伝いをするための時期だった昔を考えると、ヨーロッパ人には夏休みを勉学に、と言う考えは馴染みにくいのかもしれません。

クープ・デュ・モンド2007年 ベルギー代表決定

2005年6月、代表3人とコーチが決定しました。彼らの横顔をお伝えします。

チョコレートのピエスモンテ担当
ポル・デスケパー(Pol Deschepper)44歳

高校卒業後ブルージュの「Ter Groene Poorte」で製菓一般を学び、4年間はパティシエとして働きその後独立したというデスケパー氏。「ものを作るこの職業が面白かったので、自分の店を持っていた10年間は働き詰めで、一日に数時間しか寝ないという日々でした。ところがある時、人生は一生懸命働くことも大事だが、子供との時間や家族の絆など金銭で買えない大切なものを失いかけていると気がつき、店をたたみました。その後一年間はそれまでの分を取り戻すかのように眠り、家族や趣味の乗馬に時間を費やしました。古巣である製菓学校から声がかかったのを契機に教壇に立つようになり既に8年の歳月が流れました」。

自分の牧場に3頭もの馬を飼う彼は「生徒も馬も扱い方は同じで、良い結果を出すためには忍耐強く接しなければなりません。時間はかかりますがやり甲斐があります」という。その穏やかな話し方や優しそうな眼差しから、きっと頼りがいのある素晴らしい先生に違いないとの印象を受けた。授業で忙しくコンクールへの参加はほとんどないそうだ。

しかし、今年の4月ブラッセルで行われた「Belgian Chocolate Master 2005」で国内優勝。10月パリで行われる同世界チャンピオン大会への出場権を手にした。結果は、イタリア、日本を押さえての優勝。世界チョコレート・マスターのタイトルを獲得した。

飴のピエスモンテ担当
ドミニック・ヴァンデールミューレン(Dominique Vandermeulen)43歳

砂糖の原料であるサトウダイコンの産地として知られるフランドル地方のティーネン。ここにヴァンデールミューレン氏のアイスクリーム屋がある。商店街にある彼の店は、外見も内装も何の変哲がなく、ここがベルギー代表の店なのかと少し拍子抜けした。が、途切れることのない客足、店に飾ってあるたくさんの優勝カップなどを見て納得。高校を優秀な成績で卒業後、軍隊の飛行機整備工となった。そして仕事を続けながら23歳から夜間の料理学校に通い製菓一般について学んだ。その折、手先の器用さを認められ学校の先生に飴細工製作に進むよう強く勧められたのが、この道に進むきっかけだそうだ。

数年来いくつものコンクールで好成績を収めているが、2003年、クープ・ドゥ・フランスにおける、上位常連のフランスや日本を差し置く優勝は、彼にはもとよりベルギーにとってもその名を世界に知らしめる快挙であった。「コンクールに出るのは勉強になります。特に優勝できなかった時は、自分の欠点や他の人のどこが自分より優れているかを知る良い機会です。私はコンクールに出場するからには優勝あるのみと思っています。2位も最下位も同じように敗者です」

氷彫刻担当
ティエリー・ウェイナント(Thierry Wynant)32歳

ブラッセルにある製菓専門学校での最終年の一年間をパティスリー/ブランジェの「ド・バール」で見習いとして働き、そのまま同パティスリーに就職、現在はアトリエ主任として働いている生粋のド・バールっ子である。ド・バール氏は95年のクープ・デュ・モンドで氷彫刻、アントレメを担当、ベルギーに優勝をもたらしたチームの一人である。その師匠のもとで徹底的にテクニックやノウハウを学んだ彼は「芸術家気質のオーナーは、とても厳しかったのでその下で働くのは大変なときもありました。でも、パティシエになりたいとの信念があったので辛いとは感じませんでした。そのお陰で今の自分があるのです。

氷彫刻は基本的なことを学校で習っただけなので、未知の分野への挑戦は緊張もしますが新しいことを学ぶという喜びもあります」と闘志を燃やしている。園芸家の両親の影響もあり草花や造園、動物や鳥など自然に関するものに興味があり、旅行も見知らぬ遠い外国に行くのが常で、その国々で出会った人たち、香辛料、風景などが新しい創作のアイデアの源だそうだ。

チームのコーチ
エルマン・ヴァンデンデール(Herman Van Dender)43歳

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ブラッセルのルーバン通りは庶民的な商店街が続く交通量の激しい道として知られている。この道路沿いに掃き溜めに鶴のごとく洒落たパティスリーがある。これが彼の店「ヴァンデンデール」だ。フランス、アラスカ、シカゴ、冬期オリンピックの長野やソルトレイク・シティなどでの金賞や上位入賞という華々しい経歴が物語るように、氷彫刻で彼の右に出る者はベルギーにいない。しかし、氷彫刻のみならずパティシエ、ショコラティエとしても、ベルギー国内での幾つもの賞、95年、99年、2003年のクープ・デュ・モンドへのベルギー代表としての参加、また近年ではベルギーのローラン殿下御成婚のウエディングケーキやフィリップ殿下の次男誕生のケーキ製作と、その活躍ぶりは留まるところを知らない。

その彼にコーチとしての心構えを聞いてみた。「優秀な人材が集まり満足しています。このコンクールはチームワークが勝負です。既に何回かミーティングをした印象では、その点でも大丈夫だと確信しました。前回の屈辱があるので全員がやる気を見せています。テーマは決りましたが、各自がまだ模索の段階です。自分の役目は、クープ・デュ・モンド出場の経験を生かしたアドバイスと全員が各々の力を全て出せるような黒子になることです」

ベルギーにはサンタが2回来る

ベルギーにはサンタが2回来る

日本の子供たちからは「うそー!」という声が上がりそうですが、本当の話です。12月6日の朝、良い子の枕元や暖炉の下にプレゼントを置いてくれるのは聖ニコラ(仏語でサンニコラ)。子供の守護聖人です。前の晩、子供達はサンニコラのためにビールを、彼が乗ってくるロバにはニンジンや角砂糖を用意して眠ります。サンニコラには学校や街角でも会うことが出来ます。6日の朝、幼稚園や小学校を訪れたサンニコラは、「よく勉強をしたかな? 家のお手伝いをしているかな?」などと子供達に質問し、良い子だけがプレゼントを貰えます。彼の傍には必ずペールフエター(ムチでたたく人の意味)という黒人の従者が控えていて、悪い子は彼にムチでおし置きをされるか、船に乗せられて遠いスペインまで連れて行かれます。サンニコラのプレゼントはスペキュロースというスパイス類が香ばしいビスケットや本などです。

サンタクロースのルーツはこの人

サンニコラは4世紀ごろに実在した司教です。彼はパトラス(当時はギリシャ支配下の都市。現在のトルコの南部)の裕福なキリスト教徒の家庭に生れました。財産の全てを孤児や寡婦の救済に投じるなど、その生涯は貧しく不幸な人々のために捧げられました。その彼がローマ皇帝に迫害されて殉死したのが12月6日なのです。サンニコラはロシア・ギリシャ正教会の諸聖人中で最も尊敬され親しまれており、その姿はイコン、絵画、ステンドグラスなどにたくさん残されています。325年、サンニコラがローマ法王謁見のためローマに向かう途中、南イタリアのバリで船乗りたちを救ったという伝説から、11世紀になりノルマン人の船乗りの守護聖人に指定されました。このため海岸沿いのオランダ、ベルギー、ドイツ、イギリスなどゲルマン系言語の国にサンニコラ礼賛が浸透しました。これらの国ではサンニコラの名前を知らない子供はいません。

では、サンニコラがどうしてサンタクロースの先祖になったのでしょう? 仕掛けたのはオランダ人です。17世紀、オランダ人がアメリカのニューアムステルダム(後のニューヨーク)に移住したことで、サンニコラ礼賛も海を越えアメリカ大陸に渡りました。オランダ語でサンニコラはシントクラース(Sinter Klaas)、これが英語でサンタクロース(Santa Claus)となったのです。1823年のニューヨークの新聞には、空を飛び煙突から入ってくる小人のサンタクロースの話が載っていますが、どうしてサンニコラが12月6日ではなく25日のクリスマスにプレゼントを持って来るようになったのかは定かではありません。ところで、両人とも長い白いひげに赤いコートを着ていますが、赤い司教服を着て、司教杖をもっている方がサンニコラです。

ベルギーの12月

ベルギーの冬はサンニコラから始まります。11月の下旬ともなるとパティスリーの店先にはサンニコラを模ったスペキュロースやマジパンが並び、幼稚園や小学校の低学年のクラスでは絵を描いたり歌の練習をするなど、サンニコラを迎える準備が始まります。ところで、サンニコラにはこんな伝説があります。『昔々、道に迷った3人の子供が肉屋に宿と食べ物を求めました。ところが、悪い肉屋は子供達を殺し、ソーセージ用の肉にするため樽に入れ塩漬けにしてしまいました。数日後、通りかかったサンニコラが子供の肉のソーセージを求めたので、恐れ入った肉屋は逃げて行き、サンニコラが3本の指で空を切ると子供達が生き返りました』

古代ローマ時代、新年のお年玉として子供達に与えられたスペキュロースは、小麦粉にシナモン、クローブ、ナツメグ、カルダモン、胡椒などのスパイス類と蜂蜜を加え砂岩の型に入れて焼いた貴重な保存食でした(スペキュロースの語源はラテン語のスパイスに由来する)。中世以降になり砂糖、バター、卵などが加えられましたが、いずれにしても当時は貴重なもので、子供はサンニコラの日に特別にもらえました。今でもこれが習慣となり、良い子にはスペキュロースが与えられます。

海を越えて伝わったサンニコラは、サンタクロースとしてヨーロッパに再上陸。イエス誕生を祝うクリスマスと結びつき、今や年間売り上げの約70%を授けるという商売の神様となりました。街中がイルミネーションに輝き、デパートのショーウィンドーは売れっ子のインテリアデザイナーの手により夢のように飾られます。しかしクリスマスはベルギー人にとっては、24日の真夜中のミサに始まる厳粛な宗教行事であり家族が集う時です。25日は家族や親戚中が集い、もみの木の下にはそれぞれの人へのプレゼントが置かれます。クリスマスを祝い食べるものは、生牡蠣、フォワグラ、スモークサーモンに始まりオマールエビやジビエまたは七面鳥、デザートは定番のビュッシュ・ド・ノエル。有名パティシエも毎年趣向を凝らしたものを用意します。今年の冬はマカロンが大流行。スペキュロース味やフランボワーズ味などのマカロンを使ったツリーやビュッシュが飛ぶように売れていました。

有名パティスリーのビュッシュ・ド・ノエル紹介

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クリスマスという大イベントが終わっても、キリスト教の世界ではイエス誕生にまつわる行事が軒並み続きます。そして各々の祭りには特色のある祝い菓子があります。

王様ばんざい

王様ばんざい

1月6日、ベルギー中のパティスリーの店先は、王冠を乗せた丸いパイ菓子、ガレット・デ・ロワ(王様のパイ)という公現節の祝い菓子で埋め尽くされます。公現節とは、1月6日、東方の三博士が星に導かれはるばるベツレヘムへ赴き、馬小屋に寝ている幼児イエスの前に恭しくひざまずき、贈り物、すなわち王の印「黄金」、聖職の印「没薬」、そして預言者の印である「香」を捧げたことを祝うものです。

しかし、現在の多くのキリスト教の祭りがそうであるように、この公現節の祭りも元はといえば、古代ローマの神々の祭りが起源なのです。いにしえのローマでは、農耕の神を祭るサトゥルヌス祭が12月17日から24日まで行われ、その翌日が新年と決まっていました。飲めや歌えの馬鹿騒ぎの最中、祝宴の王を選ぶという趣向があり、そら豆を手にしたものが王となり王妃を選ぶことができたそうです。一方、新年を迎えるこの時期、ローマっ子は友人へ菓子を贈るという風習もありました。そして新年は農民が領主へ税金を納める時でもあったので、彼らは領主(王)にも菓子を贈呈しました。

その後ローマ人の間にキリスト教が徐々に広まっていきますが、依然として自然界の神々を信仰する人々も多くいました。そこで教会は、そら豆で王を選ぶことや、領主に菓子を進呈するという古くからの風習をキリスト教に巧みに取り込み、ユダヤの王であるイエスの誕生を祝う公現節に用いました。

ガレット・デ・ロワは家庭だけでなく幼稚園や小学校でも食べられます。その日は朝から、誰が今日の王(女王)になれるかという話でもちきりです。なぜこんなに人気があるかというと、パイのどこかに隠されているたった一つのそら豆(陶器製の人形)を、自分が当てるかもしれないという期待感と、王になると紙で作った冠をかぶり皆から“王様ばんざい”と祝福があるからです。一日王様になった子供の顔には晴れがましい表情が浮かび、微笑ましく楽しい行事です。

クレープは太陽

光が悪霊や死から人々を守り、嵐や雷などを遠ざけると信じていた古代ローマ人は、種蒔きが上首尾におわり夏の収穫が豊富であるようにと松明を灯し祈りました。また、冬の寒さと闇を恐れたケルト人は、光の再来や豊穣を祈願して「水を清める儀式」を2月1日に行なっていました。このように「光」は古代から豊穣、繁栄、浄化という原始信仰の対象で、2月2日のシャンドラーは豊作を祈るロウソクの祭りでした。一方、キリスト教ではこれを聖マリアのお潔めの祭りと呼び、クリスマスから40日目マリアが幼子イエスを抱いて神殿に詣でたことを祝う日です。

シャンドラーになると厳寒も過ぎ、「シャンドラーの朝露、冬の最後のあがき」「シャンドラーに、日は2時間成長する」などの諺があるように、この頃から自然界には徐々に光が溢れるようになります。この日を祝って食べるのが、収穫した小麦で作った丸いクレープ。待ち焦がれる太陽の再来を乞い、家内安全を祈願します。

クレープを焼く時、片手にコインを握ってもう一方の手でクレープをうまくひっくり返せたら、来年のシャンドラーまで幸せでいられると言い伝えられているせいか、この日だけはクレープを焼く人が多く、やれコインを持てだとか、クレープを床に落としたなどとにぎやかに昔の風習を楽しみます。焼き上がった熱々のクレープに、赤砂糖をかけたり、ナッツ風味のチョコレートペーストを塗ったり、リンゴなどのコンポートをのせて、クルクル巻いて頂きます。

無礼講のカーニバル

カーニバルの始まる時期は国や地方によって違いますが、必ず「脂の火曜日(マルディ・グラ)」で最終日を迎えます。次の日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日からイースターまでの40日間、キリスト教徒は懺悔をして贖罪の肉断ちをしました。厳冬の最中、肉類だけでなく卵や脂といった脂肪分は口にできません。ですから、カーニバルはその前にイヤと言うほど旨いものを食べ、好きなだけバカ騒ぎをするのが目的で、色彩豊かで騒々しいほど人気があります。仮装行列には必ずブラスバンドの伴奏が付き、踊りや山車そして色紙のテープや紙ふぶきは欠かせません。カーニバルの仮装は“倒置のエスプリ”がモットーで、性的倒錯(男性が女性へ)、階級無視(奴隷が主人へ)、架空の人物など、社会の規則や常識など全てを忘れてはしゃぎます。

この時の楽しみは、油で揚げたビューニュやベニエです。その昔は、40日間お預けをさせられる卵をこの時とばかりにタップリと使い油で揚げました。現在は移動遊園地などでも食べられますが、カーニバルの行列について食べながら歩くとき、これほど美味しいものはないと感じるのは寒さのせいでしょうか。

タルト・オ・マトン(仏語。フラマン語でマトンタート)

ベルギーの切手の絵柄に採用された唯一の郷土菓子であるタルト・オ・マトンは、ブリュッセルから50キロほど西のフランダース地方グラモンという町の名物です。これはカステラをもっとフワフワにしたような食感の中身をバタータップリのパイ生地で丸く包んだ手のひらサイズのタルトです。

マトンの故郷

平地が果てしなく広がるフランダース地方ですが、グラモンは「ジェラールの山」という意味の町名からも推察できるように、丘陵に富み数多くの泉がある景勝の地として中世からその名が知れ渡っていました。豊かな湧き水と広大な草原は一年を通じて乳牛に牧草や飼い葉を提供。ここで得られる濃厚な牛乳がタルト・オ・マトンの生みの親なのです。

マトンの語源のマットはフラマン語、ドイツ語、フランス語の古い方言にみられ、いずれも「固まった乳」を意味します。

中世、冷蔵室を所有するのは城や修道院だけで農民は新鮮な牛乳を保存する方法がありませでした。特にいたみやすい夏場の牛乳の保存方法としてこの菓子が考案されました。牛乳を凝乳(これがマトン)と液体の乳清に分け、乳清は家畜に与え、マトンに卵と砂糖を加えパイ生地で包みカマドで焼いて保存食にしたのです。この地方の領主達の祝宴には最良のワイン、そしてこの焼き菓子が供されるのが常だったそうです。ほんのりと甘いマトンを詰めた蕪の形をしたグラモンの焼き菓子は、12世紀にはすでに各地の村祭りで評判を呼んでいました。そして13世紀になると、南仏の吟遊詩人トルバドゥールもその詩に書き残すほど、ヨーロッパの辻々でも有名になりました。

本物のタルト・オ・マトンを残そう

今ではどこのパン屋にも置いてあるほどポピュラーなタルト・オ・マトンですが、工場で一括生産された製品が出回っているのが現状です。そこで1979年、グラモンのパン屋職人達が立ち上がりタルト・オ・マトン保存協会を結成。材料の鮮度や質を規定して伝統に沿った作り方の普及に努めることにしました。例えば、生乳の代わりの殺菌乳はご法度ですし、バターミルクの代用として酢を使うことも、卸用に既に卵黄と卵白に分けてある卵の使用も禁止です。更にバターの代わりにマーガリンを使った折り込みパイも本物のタルトとは認めません。しかし協会指定のこれらの材料はコストが高いと同時に、作るのに手間ひまがかかります。それでも協会の会員達は「おらが村の伝統菓子」を保存し伝えていこうという熱い職人気質に溢れています。

そんな彼らの作ったタルトは、工場製と比べ材料の質が違うことに加え、170グラムの中身がしっかりと詰まっているので、焼いてもパイ皮と中身の間に隙間ができません。このため室温で3日間はしっとりと美味しいのです。

また彼らはタルト普及の一環としてベルギーで一番大きいタルト・オ・マトンも作りました。15人のパン職人が2000個の卵を卵白と卵黄に分ける作業から始まった巨大なタルトは、幅1メートル30センチ、長さ12メートル57センチ、重さ536キロというもので、ギネスブックに載りました。

作り方

絞りたての濃厚な牛乳を沸騰直前まで沸かしバターミルクとあわせ、半固形と液状に分離させます。この半固形成分を大きな平織りの綿布にすくい入れ、布の四隅をくくり棒に吊るし涼しいところで一晩水分を切るとマトンが出来上がります。以前はパン屋自身が作っていたマトンですが、現在は酪農家が作っています。

パン屋はこのナチュラルなマトンに卵と砂糖を混ぜ合わせマトン生地を作ります。ごく薄く延ばしたパイ生地を型に敷き、マトン生地を絞り入れ、その上をパイ生地で覆います。表面に溶き卵を塗り、はさみで空気穴を開けた後はオーブンで焼くだけです。

和菓子の繊細さ

焼きたてのタルト・オ・マトンは黄金色に輝きバターの香りが辺りに満ちてすぐにでも食べたいところですが、焼きたてのタルトは食べません。常温に冷めたものを、コーヒーと共に食べたり、子供達は朝食やおやつにするそうです。サクッと香ばしいパイ生地とほんのりと甘くしっとりとした中身との食感の違いも絶妙ですが、淡雪が太陽に溶けるように舌の上でハラハラと溶ける中身には、和菓子の世界に通じる繊細さがあります。これを食べた中世の人たちの驚きと賞賛が手に取るように分ります。

タルト・オ・リ(米のタルト)

牛がのんびりと草を食む、なだらかな緑の丘の起伏が続くエルブ高原。雨の多い気候とこの地方特有の粘土石灰質の土壌が、湿気を程よく含んだ上質の牧草を成長させます。ここで放牧されている牛の濃厚なミルクで作るバターやチーズ。香り高い独特の風味を持つことで有名です。またエルブ高原を含むワロニー地方は古生代、中生代、第三紀といった古い地質で成り立つため、マイルドで癖のないミネラルウォーターの代表である「スパ」や「ショーフォンテーヌ」などの泉水が豊富に湧き出ます。美味しいミルクとバターそして水のトリオがタルト・オ・リを生み出しました。

ヴェスドル川の娘

タルト・オ・リは水の街ヴェルヴィエの郷土菓子です。この街は深い渓谷を流れて来るヴェスドル川の流域にあり、地の利を利用したラシャ工業の街として10世紀以来発展しました。清流で名高いこの川の水と職人の高度な手仕事は、イギリスからの羊毛を柔らかく艶のある極上の糸に仕上げました。この糸で作られたラシャ製品は貴族の垂涎の的となり、17世紀にはヨーロッパ中へ輸出され、イギリス毛織物産業の好敵手となったほどでした。

司教様は美味しいもの好き

ヴェルヴィエは、ローマ法王が直接任命した皇子(大公)司教が治めるリエージュ皇子司教領に属していました。宗教的には聖職者であり政治的には大公という立場の皇子司教の権威がどれほど強かったかは、リエージュのサン・ランベール大聖堂がパリのノートルダム大聖堂よりはるかに大きく立派だったことで容易に推測できます。この体制が18世紀のフランス革命まで続きました。このことは、ヨーロッパ中が戦争に明け暮れるなか、治外法権的な司教領は長いあいだ安泰な政治を行っていたことを意味します。

1550年から約50年間、リエージュ公国の3人の皇子司教たちに仕えた料理長ランスロ・ド・カストーが1604年に発表した料理本によると、ルネッサンス当時の皇子司教は新しもの好きで、ワインなども10ヶ国から取り寄せ飲んでいたようです。中世の食物とルネッサンス時代のそれとの大きな違いは、新しい食材がヨーロッパ中から手に入ったことと、イタリア料理の影響が強かったことでしょう。例えば、1557年、新しく皇子司教に就任したロベール・ド・ベルグ公の催した豪華な饗宴には、キャビアやトリュフ、サギのパテ、鶴や白鳥のロースト、魚や牡蠣などの魚介類が供され、これらは当時の「ヌーヴェル・キュイジーヌ」だったのです。また、特権階級の日常の食卓には、ミントなどの香草を利かせたパスタにパルメザンチーズを振りかけたもの、パイ皮を使った料理、メレンゲの冷菓など、まさに現代料理そのものが並んでいました。料理長がこの皇子司教のために創ったのがタルト・オ・リでした。

米のタルトはヌーヴェル・キュイジーヌ

小麦から作るパンが主食の国でどうして米のタルトが出来たのでしょう? 交通手段が徒歩や馬という時代でも修道院間の交流は驚くほど密なうえに、リエージュは大聖堂をもつ司教領。ローマ法王の使者が頻繁に訪れたことは想像に難くありません。知識欲豊かな僧によりイタリアの米が紹介され、イタリア料理好きな主人のために、料理長が新食材の米と地元のミルクとバターを使い新しいデザートを考案したのです。

タルト・オ・リの作り方

ベルギーの「ルレ・デセール」最年少のメンバーであるジョン=フィリップ・ダルシ氏はエルブ高原の出身。現在はヴェルヴィエにパティスリー/ショコラトリー及びティールームを持つ気鋭のパティシエです。その彼が愛してやまないのがタルト・オ・リとメルヴェイユ。食べるのが惜しいような創作パティスリーを作る一方、子供の頃の懐かしい郷土菓子の伝承に力を入れています。

エルブ高原の酪農家から届いた新鮮な牛乳にシナモンを入れ沸騰させ、二重の鍋に移し米、バニラを入れ湯煎にかけて約1時間半弱火で煮ます。米が柔らかくなったら砂糖を合わせ、別の容器に移し替え翌日まで一晩寝かせます。焼く直前米に卵を混ぜ合わせ、パイ生地を敷いた台に3センチの厚さで流し込み、溶き卵で艶をつけて270度の高温で約35分焼きます。彼に言わせると、米の煮方さえ注意すれば何も難しいことはないシンプルな菓子だそうです。でもシンプルなだけに美味しく作るのは難しく、食材の質と作り手の経験が問われます。

至福の瞬間

焼きたてのタルトの表面はプックリとふくれ、「タルトの花」と呼ばれる表面にできる茶色の模様が美味しそう。厚い米の層をじっくり焼かないとこの花は咲かず、花の咲かないものは本物ではありません。冷ましたパイを切ると、熟成したカマンベールのようにトロ~ッと生地が流れ出ます。ほのかなバニラの風味、濃厚な牛乳のうまみを吸った米が口の中でとろけます。米粒の形を残しつつ、しかもビロードのごとく柔らかい食感の仕上りに、さすがルレ・デセールと唸りました。

タルト・オ・シュークル(砂糖のタルト)

ワーテルローといえば、1815年にナポレオンがイギリスとプロイセンの連合軍に大敗した古戦場。ブリュッセルの南30キロのところにあります。「砂糖のタルト」はこのワーテルローのタルトです。ナポレオンのおかげで生れたとも言えるタルトの発祥地が、彼の「百日天下」の幕が下りたところとは。なんとも皮肉な巡り合わせです。

ナポレオンの大陸封鎖

1805年、トラファルガーの海戦で海上覇権を封じられたナポレオンは、イギリスに経済的打撃を加えるべく、その圧倒的な軍事力にものを言わせヨーロッパ大陸諸国に「大陸封鎖」を命じました。イギリス及びその植民地との貿易を一切禁止したため、大陸では諸原料の供給が途絶えがちになりました。特に「白いダイヤ」と呼ばれた砂糖は、その最大の供給地である西インド諸島からのルートが断たれ、たちまちその値段が急騰しました。その頃のヨーロッパでは既に紅茶やコーヒーを飲む習慣が人々の間に定着しており、砂糖は商業上の重要な商品でした。原料のサトウキビは、熱帯地方でしか栽培でません。

そこでナポレオンは砂糖の価格の高騰を防ぐ対策として、サトウキビに代わる他の原料からの砂糖生産の技術開発を奨励。研究には資金を惜しまず、農学者を優遇しました。ここに有力候補として「サトウダイコン」が浮上しました。当時、サトウダイコンは家畜の飼料として栽培されており、糖分があることは分析済みでしたが、効率的で低価格の精製方法が未開発という現状でした。その後ドイツやフランスの化学者たちにより糖汁の精製法が確立。産業革命というタイミングとも相まって製糖産業が幕を開けました。

ワーテルローの砂糖工場

ベルギーがオランダから独立したのが1830年。わずか6年後、広大なブナの森と果てしない平原が続くワーテルローに、大規模な製糖工場が造られました。この辺りは土地が痩せているため農作や酪農が振るわず、昔から多くの人が出稼ぎや、道を石畳にする舗装工で生計を立てていました。ですから、工場設立は地元で歓迎され、多くの人が工場で働き始めました。

製糖工場の従業員に給料と共に支給されたのが、廃糖蜜または赤砂糖でした。廃糖蜜とは砂糖を精製するときに発生する副産物の粘りのある茶褐色の液体で、まだ半分ぐらいの糖分が含まれています。これをパンにつけて食べたり、果樹園も少ないこの土地の人は赤砂糖でタルトを作りました。舗装工も大寒の時は、コーヒーと共に砂糖のタルトが支給されるぐらい、このタルトはワーテルローの人々の生活に浸透していました。当時はパン屋に赤砂糖を持って行くと、パン焼き釜で砂糖のタルトを作ってくれました。

このため、タルトの生地はパン生地と決っています。あるワーテルロー出身の小説家は、幼少の思い出として、土器の壷を持って廃糖蜜を買いに行かされたことや、日曜日の朝に漂う、砂糖の香ばしい甘い香りをかいだときの幸せな思い出を綴っています。

タルトの作り方

現在のワーテルローはブリュッセル郊外の高級住宅地として有名で、ワーテルロー大通りの両側には洒落たブティックやレストランが軒を連ねます。街の中心にある教会の直ぐ裏、気鋭のパティシエ、マルク・デュコビュのパティスリーがあります。独立して店を構えたのが3年前。宝石のようなケーキやプラリーヌはその日の夕方には完売します。それもそのはず、ベルギーチョコレート大使、2003年クープ・ド・モンド3位、2005年クープ・ド・モンドのチーフ、とその実力は証明済みです。彼にタルトを作ってもらいました。

パン生地をタルト台に広げ、クレーム・ダモンドとクレーム・パティシエを混ぜたアパレイユを、蚊取り線香の要領で絞り出します。そこに生クリームと全卵を混ぜたアパレイユを流し込み、表面に粉砂糖をタップリとかけ、バターの小片を散らします。生地の端に溶き卵をぬり照り出しをしてから180度のオーブンで約15分焼きます。

タルト以上のタルト

パティシエのこだわりで作られたデュコビュ氏のタルトは、タルトと呼ぶにはあまりにも繊細。あえて言うならタルトのオートクチュール。普通はパン生地の上に直接砂糖を振り掛けますが、彼はクリーム類をクッションに使います。このやり方だと焼きあげた時に中身の乾きが少なく口当たりが優しくなります。また、一般に使われているグラニュー糖の代わりに粉砂糖を使用するのは、ジャリっとする食感を避けるためとのこと。

焼きあがったタルトの表面の素朴な美しさ。かすかにカラメル化した砂糖を、溶けだしたバターが薄絹の衣のように覆い、艶ややかに輝いています。常温に冷ました一切れを口にすると、ほんのりと広がるアーモンドの香り、甘さ控えめの中身とパン生地とがバランス良くからまり、気がつくと次の一切れに手を出していました。夏には涼しげな白い粉砂糖、寒い冬には赤砂糖とパイナップルでパンチを出します。

マカロン

少し前までは、脚光を浴びるほどお洒落な焼き菓子ではなかったマカロン。日本での最近のブームには驚きます。クリームやガナッシュを挟んだこの「パリ風マカロン」の原型は、丸くしたアーモンド生地を焼いただけの、味も外見もいたって素朴なものです。パリ風のマカロンが作られる前から、そして今でも伝統的な手法を守り続けている店がフランスのナンシーやアミアン、イタリアのピエモンテ、そしてベルギーではボーモンやシメイにあります。

マカロンはどこから来たか?

カトリーヌ・ド・メディチが後のフランス王アンリ2世に嫁いだ時、彼女が連れてきた料理人がマカロンを伝えたと言われています。では、マカロンはイタリア生れなのでしょうか? そのルーツはどうも北アフリカのアラブ諸国のお菓子にあるようです。827年、アラブ人がシシリーに侵入してくるという大事件が起こりました。彼らは乾燥パスタや米、アーティチョーク、レモン、シャーベット、更に菓子の材料としてアーモンド、ピスタチオ等の食材を持ち込みました。その後シシリーにギリシャ人が入植。交易上手なギリシャ人により、これらの食材がイタリア本土に上陸しました。ローマ帝国崩壊後は修道院が精神的及び文化的な指導者となり、食文化もワイン、チーズ、菓子の分野で重要な役割を果たしました。高位聖職者や王侯貴族が、マカロンの伝播にも一役かっていたことは想像に難くありません。

ボーモンのマカロン

ベルギーの西南部エノー州にあるボーモンはフランスとの国境近くにあります。豊かな森が広がるこの地方にはいくつもの城が点在し、同じ州のトゥルネーという町は初期のフランク王国の首都でした(後の首都はパリ)。

マカロンは、1814年、フランス王ルイ18世の使者を迎えたボーモン市長主催の宴会メニューに登場します。このマカロンを1842年以来作り続けているパン屋があり、現在は6代目のディディエ・ソルブルゥ氏(Didier Solbreux)。リエージュ大学で化学を専攻し専門分野で働いていましたが、6年前に店を継ぐ決心。父親にそのノウハウを学び、今ではお父さんと共に朝の4時から12時間ノンストップで働いています。卒業が至難で有名な化学部卒の彼に、軌道修正の理由を聞くと「自分の血の中にパン屋というDNAが流れているのでしょう。毎日真摯に働く父の姿を見ていて、マカロン製造を続けることの意義を自覚しました。父が考案した、マカロン入りのタルト・オ・リが新しい郷土菓子となりつつあるのも誇りです」

マカロンの材料はいたって単純。その分、2種類使うアーモンドの質と挽き方にはこだわり「マカロンを作る度に粒からアーモンドを粉砕します。三回粉砕するのが我家流。これがほど良い口当たりを作ります」。アーモンド粉と卵白と砂糖で作った生地で実際にマカロンを成型してもらいました。絞り出し袋は使わず、スプーン一本でまるで魔法のように次から次へとマカロンを生みだします。

右手に持ったスプーンの中の生地を、左手の親指の腹で適量かすり取り、それを親指と人差し指の上で器用に丸めることほんの数秒。直径約3センチのマカロンが誕生します。熟練の技と絶妙な生地の固さが決め手といえます。この調子で一度に12キロの生地から約1000個のマカロンを作り、パンやタルトを焼いた後の温度が200度に下がったオーブンで焼きます。マカロンを入れる木の箱も代々そうしてきたように自家製です。

シメイのベルナルダン

ボーモンから20キロ南に下がったところがシメイ。ここはその名を冠したトラピストビールで有名ですが、もう一つの特産品がベルナルダンです。

町の中心の広場に面したお菓子屋が1883年以来ベルナルダン製造をしています。ミッシェル・ユベール氏(Michel Hubert)はその4代目。しかし後継者がいず、彼が最後だそうです。レシピは今から123年前、彼の曽祖父がベルナール修道会の修道士から伝授されたもので、門外不出。ミッシェルさんも父親から口述されました。

ベルナルダンはマカロンと違い、グラニュー糖の代わりにカソナード粗糖と蜂蜜を使いますが、アーモンド粉や卵白を用いるのは同じです。茶色の砂糖を使うのは、修道士の衣が茶色だったからかも知れません。

ここでもアーモンドは粒から粉砕します。粉砕機は年代物ですがまだまだ現役。しかしEUの衛生基準が厳しく、ステンレスの作業台にしない場合は製造禁止など、様々な条件をクリアするのは金銭的に大変だと嘆いていました。これも家族経営の店では後継者が見つからない理由かもしれません。生地の作り方はボーモンのマカロンと同じですが、薄い楕円の形は曽祖父の頃からのプレス機で型を抜きます。

食べ比べ

表面がこんがりとキツネ色のボーモンのマカロンをかじると、思いのほか強いアーモンドの香りと、ほのかに甘いアーモンドの味が口いっぱいに広がります。サクサク、カリカリの外側としっとり柔らかい中身のコントラストが楽しく、焦げている部分の香ばしい匂いにもつられ次から次へと手が伸びます。ベルナルダンは、薄い生地と粗糖と蜂蜜のため甘さが強めですが、アーモンドの美味しさとしっとり具合は満点。軍配は引き分けです。

タルト・デュ・ロティエ(la tarte du Lothier)

時は西暦800年12月25日クリスマス。フランク王カール大帝はこの日、法王レオ3世からローマ皇帝の称号を授けられ、名実ともに西ヨーロッパ全域を支配することになりました。かくも広大だった帝国は、彼の死後その子孫たちの間で分割相続されていきます。大帝の曾孫の一人ロテェール2世は、現在のオランダ、ベルギー、ドイツの一部、フランスのアルザス・ロレーヌ地方を譲り受け、その領土は「ロティエ公国」と呼ばれました。

時は流れ、領土は更に分割され、12世紀以来、北海のエスコー川からライン川の間の土地はブラバン公爵が治めるところとなりました。彼の領地ブラバン地方は、ナポレオン失脚の動機となったワーテルローの戦いの古戦場や、今年で860年を経たというヨーロッパ最大のシトー修道会僧院の廃墟が静かにたたずむヴィレルス・ラ・ヴィルなどを含む、中世以来、政治的にも宗教的にも歴史のページに頻繁に登場してきた地方です。

タルトとビールで町興し

ブラバン地方の守護聖人祭には昔から必ず引き割り米のタルトが食卓を飾りました。今から35年前、ジュナップ町役場の観光課はこのタルトを町の特産品にする企画をたて、パン屋の4代目アンリー・アンドレ氏に美味しいタルト作りを依頼しました。そこで彼は、牛乳と砂糖それに引き割り米というシンプルだったアパレイユにビター・アーモンド粉を加えメリハリをつけ、アーモンドと相性の良いアプリコットジャムをタルト生地の上に薄く敷くなどを考案。新タルト・ロティエを誕生させました。

ジュナップの町はブリュッセルの南方約40キロに位置し、12世紀にはブラバン公爵が城を建てたことでも分るように、中世はこの地方の中心でした。しかしその古城も今はなく、現在はブリュッセルなどの大都市の影に隠れひっそりとしています。これを憂いたジュナップの有識者たちが1990年「我ら由緒あるロティエの国の民なり」と宣言。歴史的建造物の調査や保護に乗り出すと同時に、内外へのアピールの手段として「タルト・ロティエ協会」を立ち上げました。

サラリーマン、弁護士、パイロット、商人など約20人の男女で構成される協会は、ベルギー内外へのタルトの宣伝と地元菓子屋への奨励のため、アンドレ氏のレシピでタルトを作る菓子屋へ表彰状を贈ります。最高の3ツ星を得た優秀菓子屋を公表するとき、今では新聞社も駆けつけるほどのイベントになりました。協会が行う月1回の食べ比べはさながらミシュランのガイドブックのよう。覆面の会員が菓子屋でタルトを購入。菓子屋の名前を伏せて試食するのでもちろん審査員もどこの菓子屋かは分りません。判定の基準は、全体及びカットした時の断面の美しさ、引き割り米の煮方や分量、パイ皮の厚さや敷いてあるジャムの量、ビター・アーモンドのアロマと味など、プロ顔負けの厳しさです。

タルトの作り方

ここ数年来3ツ星を取っているというゴシオ氏に実演をしてもらいました。

(1)ミルクを砂糖と共に沸騰させる。沸騰したら引き割り米をさらさらと加え、焦げないように絶えず木ベラで混ぜながら約2分煮る。バットに移し冷ます。
(2)生のアプリコットをフォークで潰し、ザルなどで水分を切ってから砂糖を足し軽く煮る。練りこみパイ生地を用意しておく。
(3)冷ました(1)にビター・アーモンドの粉と卵黄を加え全て混ぜる。そこに、砂糖を入れて8分立てにした卵白を加え合わせる。
(4)バターを薄く引いたタルト型にパイ生地を敷きこみ、アプリコットのコンポートを薄く延ばし、(3)をタップリと乗せ、220度で20~25分焼く。

ゴシオ氏の両親は代々がそうであったようにこの土地で酪農と農業を営んでおり、彼は9人兄弟の末っ子です。大家族のパンやケーキまでも作る肝っ玉母さんは、庭でとれるアプリコットで引き割り米のタルトを作っていたそうです。生粋のジュナップっ子のゴシオ氏にタルト・ロティエへの思いを聞きました。「僕は生れてからずっとこのタルトを食べていますが飽きません。アプリコットを使ったタルトは他にもいろいろありますが、引き割り米とアプリコットが奏でる味は、毎日でも食べたいと思わせる優しさがあります。次世代そしてもっと多くの人に知ってもらいたい素晴らしい郷土の菓子だと思います」。

三ツ星タルト

三ツ星タルト

食べ比べてみると

3ツ星と2ツ星の店のタルトを食べ比べてみました。3ツ星タルトはメレンゲを焼いたような滑らかな外見と同様、中身も軽くふんわりとした食感で甘さ控えめのジャムと調和して上品。一方、軽いけれどしっかりとした食感とすこし甘みが勝ったジャムの2ツ星タルトは素朴な味わいといえます。しかし見た目と食感に多少の違いがあるとはいえ、いずれも甲乙つけがたく、強いていえば、前者は朝食でもよさそうなのに比べ、後者は3時のおやつに合いそう。ジュナップの住人にもひいきはあるようで、星の結果がでると街角ではタルト論議に花が咲くそうです。

二つ星タルト

二つ星タルト

グーテリング(Geuteling)

ブリュッセルより東に車を走らせること約一時間。フランダース地方特有の、どこまでも平らに続く田園風景の中にエルストの町があります。あまりに小さくて、最近は隣町と合併されブラケル・エルストとなったぐらいです。のんびりとしたこの田舎町も、2月9日に行われる守護聖人「聖女アポリーヌ祭」の“グーテリング投げ”のときは町中が活気づきます。これは金貨に似せた小さなグーテリングと250ユーロが当たるトンボラ入りの福袋を、広場の高い塔からばら撒くという行事です。グーテリングとは聞きなれない言葉ですが、クレープのことです。しかしクレープと呼ぶと土地っ子に「イヤッ、クレープじゃなくてグーテリングだ」と必ず訂正されます。

2月はクレープを食べる月

長く寒い冬が最後の猛威を振るう2月。太古の時代から、人々はローソクに火を灯し「光」の再来を願いました。これがシャンドルール(ローソクの祭り)となり、この日に穀物で作ったクレープを食べる習慣がありました。丸いクレープは待ち焦がれる太陽を意味します。現在でも2月2日、各家庭や学校では、キャンドルを灯してクレープを食べる行事が引き継がれています。

エルストのグーテリングはいわばクレープですが、他のクレープと違い、スペインのトルティーアに似ています。それもそのはず、その歴史はベルギーがスペインに占領されていた16世紀頃にさかのぼります。スペインの将軍が、祖国で食べていたトウモロコシの粉で焼いたトルティーアを食べたいと言いました。スペインにはコロンブスの新大陸発見で持ち込まれたトウモロコシがありましたが、当時のベルギーにはまだ存在せず、小麦粉で代用したトルティーアを作りました。それ以来この町では1月の末から2月9日の聖女アポリーヌ祭が終わるまで、どこの家庭でもパン焼き釜でグーテリングを焼く習慣が生れたそうです。

そんな伝統あるグーテリングですが、20世紀に入り地元の生活様式が変わり、農業をする人の激減により50年以上もこの行事は途絶えていました。しかし今から20年ほど前、5人の有志が伝統的な風習を次代に伝えようと、ボランティアで「オーブン・ミュージアム」を作り、自分達でレンガ一つ一つを積み重ね炭焼き釜を再現しました。釜焼きの火加減を教えてくれる老人探しや、生地の硬さを研究することから始まった活動ですが、今では町おこしの一端を担っています。

生地の作り方と焼き方

グーテリングとは、「おたまに一杯」という意味のフラマン語です。グーテリングのタネをおたまですくって釜に流し焼きますが、火加減に劣らず大事なのが生地の硬さです。流したとき周りに広がりすぎない固さと、ほんの数秒で均一に火が通る濃度が求められます。

  1. 朝絞りたてのミルクを年代物のストーブで52~53℃に温める。ミルクを大鍋に移し、小麦粉、少量のシナモンパウダー、溶いた卵黄を加え、全てを素手でかき混ぜる。塩と、ミルクで溶いた生イーストも加え混ぜる。更に、固く泡立てた卵白を加え良く混ぜる。
  2. 麻の布で内張りをした木の箱に鍋ごと入れて箱の蓋をして、タネが3倍の量に発酵するまで寝かせる。
  3. グーテリング一枚分のタネをおたまですくう。それを長い柄が付いた別のおたまに受けて、釜の手前から奥まで順に一枚ずつ流していく。一番奥まで20枚分を流し込む頃には、もう手前のグーテリングが焼き上がっているので、フライ返しを使いピザを取り出す要領で取り出す。中の水蒸気を抜くため網に並べる。
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わずか30秒でぷく~と膨らむ面白さ

釜の内部の温度を常時450~500℃に保つのが美味しく焼く最大の秘訣で、これは火加減を見ながらの経験以外ありません。焼き上がったグーテリングの様子を見ながら、時々薪をくべて火加減をコントロールする職人的な勘の体得には、最低7年はかかるそうです。タネをおたまですくう人と焼き手、そして焼き上がったものを受け取り網に乗せる3人の息の合った作業が、近郊から集まった老若男女が見守る中、夕刻まで絶え間なしに続きます。汗だくで作業をする3人、焼き上がった美味しそうなグーテリングに歓声を上げる人々、途中で地元の有志たちの音楽隊も参加しての、なんとも楽しい炭焼きクレープ大会です。

思わずもう一枚!

グーテリングの大きさは直径約20センチ。少しいびつな形は愛嬌があり、実に美味しそうなキツネ色をしています。が、作りたては食べません。しっかり冷まして生地を落ち着かせます。オーブン・ミュージアムでの作業の見学後は、隣の喫茶部で食べられますし、持ち帰り用も売っています。再度温められたグーテリングは冷めないよう一枚ごとに陶器の蓋を被せてサービスされます。伝統的な食べ方は地ビールを傍らに、塩入のバターを乗せるか、カソナード砂糖をかけて食べるそうです。後者を食べてみました。ふわふわと滑らかなうちにもしっかりとした食感にまず驚きました。そして噛みしめるほどに広がる新鮮なミルクとカソナード砂糖とのまろやかで深い味わいに、たかがクレープと侮っていた自分のことはすっかり棚に上げ「これこそ本物のクレープ!」と手放しの誉めようでした。

タルト・オ・ストフェ(Tarte au stofé)

ブリュッセルから東南に車を走らせてわずか20分、ワーブルは首都圏で働く人のベッドタウンとして人気がある裕福な住宅地です。ブラバン・ワロン州の州都のこの街は、市庁舎や教会を中心に、メインストリートには小規模ながら洒落たブティックや小綺麗なレストランが並びとても住みやすそう。ディル川沿いに牧草地が広がるブラバン地方は昔から酪農業が盛んで、地の利もあり大都市へ酪農製品を供給し栄えていました。

憲章 発令

1222年、この地で中産階級の人たちにとって前代未聞の事件が起こりました。ブラバン公国領主ジョン公が、ワーブルの商人などに自由商業権を許可する「憲章」を発令したのです。領主の力が絶大だった封建制度の下で中産階級が自己の権利を主張し、それを支配者が認めたということは画期的なことでした。今風にいえば雇用主と労働組合との間に合意が成立したとでも言いましょうか。その折、これを祝い特産の白いチーズ(ストフェ)で作ったタルトが献上された、と古文書にあります。

ジョンとアリス

ワーブルでは1954年からだいたい5年毎に、「憲章」発令前夜のジョン公と庶民をテーマにした「ジョンとアリス」という劇が興行されます(2007年は5月16日~20日)。一般市民から募った、総勢500人もの登場人物が繰り広げる2時間に及ぶ時代絵巻は、ワーブル市民をはじめ近郊から延べ6000人もの観客を集めます。往時の衣装に身を包んだジョン公と王妃アリス役はもちろんのこと、農民や僧侶そして子役までもが役になりきっての熱演で、観る者を800年も昔の中世に誘うそうです。そして合唱やダンスなどで締めくくられる劇の最後には、タルト・オ・ストフェが観客に配られます。この時はなんと300個のタルトが用意されるといいます。

伝統タルトの保存のため

タルト・オ・ストフェ保存協会の会長にお話を伺いました。「フロマージュ・ブランつまり白いチーズのことをワロニー地方の方言で“ストフェ”と呼びます。ストフェは、低脂肪の牛乳を凝乳酵素で固め、軽く水を切っただけのチーズです。日持ちしないので、冷蔵庫のなかった時代にはタルトにすることが多かったわけです。母から娘へと代々教え継がれた伝統的な菓子を次の世代に残すため、そして自慢の菓子をベルギー内外に宣伝するため、今から13年前タルト保存協会を立ち上げました。ある農家の婦人が80歳になっても作っていた、自家製のストフェと庭のリンゴを使ったタルトの美味しさといったら・・・感激ものでした。この地方には多くのリンゴ園があり、また牧草地が多く美味しいミルクが得られます。土地の恵みをフルに活かしたタルト作りは中世の頃からの先祖の知恵です」とタルトの美味しさの宣伝に余念がありません。

一方、ワーブルの文化遺産や伝統を保護し、ひいては土地を活性化させる目的で、53年前4人の発起人がジョンとアリスの劇を始めました。最初は村祭り的に有志だけで始まった劇も、郷土菓子との名コンビで今ではすっかり名物行事となりました。

タルトの作り方

(1)準備:卵は卵白と卵黄に分ける。スイートアーモンドと少量のビターアーモンドを混ぜて粉末にする。マカロンをめん棒で軽く砕く。りんごのコンポートとパン生地を用意する。

(2)充分水分を切った白いチーズ(低脂肪のもの)に生クリームと卵黄を加え混ぜ合わせる。そこに砂糖、アーモンド粉、溶しバター、マカロンを加え混ぜる。

※注:ワーブルっ子はチーズの小さな塊が時々感じられるタルトが好きなので、丁寧に混ぜる必要はない。

(3)バターをぬったタルト型に生地を伸ばしピケする。その上にリンゴのコンポートを薄くひく。

(4)9分立ての卵白を(2)に混ぜる。※注:卵白の気泡を壊さないため手で混ぜ合わせる。これを(3)に載せ、225℃~250℃に予熱したオーブンで20から30分焼く。

なかなかどうして

ワーブルの住民の多くは共稼ぎなのでタルトは週末に菓子屋で買い求めます。そんな人々で賑わう一軒の店で買ったタルトを試食しました。程よく焦げたしかし何の変哲もないタルトは、何だか胃にどっしりと重そうです。ところが、その田舎っぽい外見を見事にくつがえすほど繊細で軽い中身と、時々舌にあたるチーズ粒とマカロンの片鱗のアクセントに、「ヘヘェーお見それしました」と感服。脂肪分が少ないせいかチーズの重たさはなく、アーモンドの味と香りがしっかり効いているのはマカロンが入っているからでしょうか。惜しむらくは、既製品を使ったと思われる甘さ勝ちのペースト状のコンポート。どうせならもう少しリンゴの食感が感じられるものが欲しいところでした。

クック・ド・ディナン(couques de Dinant)

ディナンはブリュッセルから100キロほど東南にあるムーズ川沿いの愛らしい町。川の片側には切り立った崖をもつ山があり、崖の上にある中世の城砦からの雄大で牧歌的なパノラマには心を洗われる思いがします。牛が草を食む牧草地が見え隠れするどこまでも続く穏やかな丘陵はAOCチーズや美味しいバターとミルク、そしてアルデンヌの生ハムの故郷です。

ディナンの町は12世紀から銅製品の加工で有名でした。そのためフランス語や英語で真ちゅう製の家庭用品や室内装飾品のことを指してずばり「ディナンドリー」というほどです。そしてもう一つディナンの名前のついたものが、今回の主役クック・ド・ディナン。ところで、ジャズ音楽に欠かせない楽器サクソフォンの発明者アドルフ・サックスが生れ育った町がここディナンです。

人々を救ったビスケット

クック・ド・ディナンの起源は、古代ローマ人が好んだというライ麦粉にハチミツと羊のチーズなどを加えて作った平たいビスケット。ローマ兵たちの保存食でもありました。中世になりディナンのパン職人が改良し、小麦とハチミツのみで作るようになりました。15世紀半ばディナンがブルゴーニュのシャルル勇肝公により包囲されたとき、この日持ちのする固いビスケットが籠城した人々を飢えから救ったそうです。

8代続く老舗の店

クック・ド・ディナンを1774年に商業化したのが、今日にいたるまで8代続くメゾン・コラール。第一次世界大戦で壊された後1923年に再建されたアトリエに入ると、一気にレトロな雰囲気に包まれます。機械らしいものは生地を混ぜるステンレス製の桶と生地を伸ばすものだけ。使いこんだ分厚い木製の作業台と壁にかかった何十種類ものブリキの型、そしてこれも使いこなされ枠の部分を補強してある木型など、トランジスターラジオから流れる音楽がなければ、昔もこのままだったと思わせる仕事場です。

クック・ド・ディナンを有名にしたのは、ブルゴーニュ公のエピソードとともに、バラエティーに富んだモチーフのおかげです。中世はパン屋自身が彫っていたためシンプルだった模様が、その後木の家具を作る職人が彫るようなり意匠に富んだ木型となりました。メゾン・コラールにはアンティークの木型や18世紀の開店当初からの木型が200以上もあり現在でも使用されています。

作り方

このアトリエで25年も働いているエディーさんの流れるような職人仕事を拝見しました。材料も当時と変わらずベルギー産の小麦粉とハチミツのみ。その他一切加えません。

(1)小麦粉と液体ハチミツを混ぜる。粉とハチミツの割合は基本的には3対1。しかし天候による温度や湿度の微妙な変化により割合を加減する。

(2)空気抜きのため、生地を作業台で何回かこねてまとめる。麺棒で平らにし更に薄くするため機械にかけて延ばす。木型の模様の輪郭と同じサイズに作ってあるブリキの枠を使い、生地から型を抜く。

(3)生地を木型に軽くはめ込み、指先と手のひらを使って押し付ける。レリーフの微妙な高低がはっきりと出るよう、場所により押す力を加減する。木型を立てて台にポンと打ち付け生地を抜き、天板に並べる。

(4)300度の高温で4~5分焼く。途中で天版を取り出し艶出しのため全体に刷毛で水をサッと塗る。

(5)焼きあがったらオーブンから出し、裏返しにして冷ます。

堅いことは堅いけれど

実を言うと、アトリエに入った瞬間ちょっと驚きました。ビスケット屋の仕事場にしては甘い香りが漂っていません。スペキュロース工場を見学した時は、アトリエに足を踏み入れたとたん、焼けた砂糖やバターの甘い香りに包まれたためです。しかし材料が粉とハチミツと分かり納得。焼く現場では穏やかな甘い香りが漂ってきました。

クック・ド・ディナンの他にクック・ド・ランスという小型の丸いビスケットもあります。季節労働者として働いていたランスという人が、あるとき間違って小麦粉の中に砂糖を入れたのがそもそもの始まりでした。大事な原料を無駄にはできず、シナモンを加えて焼いたところなかなかの味だったというわけです。

さて、食べるのが惜しいような見事な浮き彫りの花かごを試食しました。手で割ろうとすると、堅いと聞いていたわりにはポキッと折れずしんなりと曲がります。「ビスケットのようにポリポリとは噛まず、飴玉のように口の中でゆっくり溶かしなさい」と教えられた通り、噛みたいのをじっと我慢の子。甘くもないモソモソとした堅い生地を口の中で転がしながら待つ時間の長いこと。でも溶け始めた途端、ドッと押し寄せたハチミツの優しい甘さ。

その滋味豊かな甘みにいまさらながらハチミツの偉大さを感じました。クック・ド・ランスは砂糖とシナモンのバランスも良く甘いもの好きな現代人向き。甘いものが氾濫している今、甘さでは他に引けを取るクック・ド・ディナンですが、その芸術的ともいえるモチーフで、食べるというよりは装飾品として人気があります。

タルト・ビポラン(tarte Vi Paurin de Rixensart)

リクソンサールは、ブリュッセルの南部ソワーニュの森から果てしなく広がる田園地方にある小さな町です。広大な森や湖がある穏やかな起伏に富む一帯には、その昔、野原や小道などいたるところに野性のリンゴの木が繁っていました。このひなびた地方も現在では大富豪や政治家そして外交官などが住む高級住宅地として知られています。ヨットが浮かぶジェンバル湖畔には瀟洒なホテルやレストラン、アートギャラリーなどがあり、ブリュッセルから車で20分という便利さも手伝い、お洒落でハイソなリゾート気分を味わえる憩いの場所となっています。

また近郊には広大な庭をもつ19世紀に作られたラ・ユルプ城があります。220ヘクタールの敷地内には大きな池や乗馬場があり、家族連れでピクニック、犬の散歩やジョッギングなど、ブリュッセルの緑の心臓として愛されています。公園の中心にある城ではオペラやコンサート、劇などの文化的なイベントが行われます。この広大な土地は、ソーダの開発で財を成したベルギーの大実業家ソルヴェー氏の所有でしたが、今から50年前に城ごとワロン政府に寄付され一般に公開されています。

このようにこの辺り一帯には富裕層が多く住んでいますが、郷土のタルトは「けちん坊のタルト」と名付けられています。

けちん坊のタルトの由来

あるものは森だけというこの地方では、秋になると子供達が拾い集めたリンゴでタルトやコンポートを作ります。野性のリンゴは酸っぱいため、タルトにはカスタードクリームを合わせる習慣がありました。でもなぜこのタルトがけちん坊のタルトと呼ばれるのでしょう?

拾ってきたリンゴだったからかもしれませんが、それだけではありません。昔からこの村の住人は大変なケチで、安いものでもさらに値切ったそうです。商品でもサービスでも、すこしでも安く、もっと安く、出来ればただで手に入れたい! 日本風にいうと「ケチは舌も出さない」的なしまり屋だったのでしょう。村の郊外に住んでいたブルジョワ階級の人々は、その度を越した様子を皮肉って、彼らのことを「ただの生活のリクソンサール人」と呼んでいました。この“ただの生活”という意味のフランス語が変化し“ビポラン”となり、ビポランのリクソンサール人というのが彼らに付けられたあだ名でした。ところがジョーク好きな人々は、それをかえって喜びタルトの名前に採用することにしました。ビポランの人が作るタルトなので、タルト・ビポランというわけです。まさに「転んでもただでは起きない」を地でいく人たちです。

今ではこの名称は正式に特許を取得し、リクソンサールで作られたリンゴのタルトだけに使用されます。「最近のパティスリーは伝統的なタルトを片隅に追いやり、上品な外見と一度食べただけでは判断できないような複雑な味がもてはやされる傾向にあります。決して悪いことではありませんが、住人達に自分達の根っこの部分を忘れてもらっては困るので、ラベル制度を設け伝統的な作り方を守る菓子屋にラベルを与えています。リンゴはコンポートとスライスしたものと2種類使っているところがポイントです」とタルト・ビポラン保存協会の人は自慢気に説明してくれました。

作り方

(1)パン生地を用意する。調理用のリンゴでコンポートを作り裏ごしする。乾しぶどうを茶色のラム酒に浸け一晩置き水分を切っておく。カスタードクリームを用意する。

(2)タルト型にパン生地を延ばしピケをしたら、約5ミリの厚さにコンポートを敷き詰める。すこし硬めに作ったカスタードクリームを搾り出し袋に入れコンポートと同じぐらいの厚さで全体を覆う。乾しぶどうを全体にパラパラと散らす。

(3)皮を剥き薄くスライスしたリンゴでタルトの表面を覆う。その上にスライスアーモンドを散らし、同量の砂糖をまぶした乾しぶどうで飾る。250度のオーブンで25分焼く。食前に粉砂糖をかけて食する。

ケチらない手間

今ではリクソンサールの住人でもその名の由来を知らない人が多いため、タルト保存協会は、町の入り口に「タルト・ビポランの町」という看板を立てたり、クリスマス市ではヴァン・ショ(熱いワイン)との相性の良さを売り込むなど宣伝に努めています。

保存協会の努力の賜物と思える“当地自慢のタルト・ビポラン”と書かれたカードが添えられたズッシリと重いタルトを試食しました。その名のイメージに反して、なかなか繊細な外見です。タルトの表面にはスライスしたリンゴが手間を惜しまず綺麗に並べてあり、チョッとカラメル化した乾しぶどうとスライスアーモンドが美味しそう。カスタートクリームとコンポートの量もケチっていません。甘さを抑えた柔らかい中身とアーモンドのカリッとした食感。ツンと鼻梁をくすぐるラム酒の香りと味。「けちん坊のタルト」、食べ応えと風味はケチっていません。

クレッツコーペンとスプレットルーケン(Kletskoppen & spletlukken)

今回ご紹介するフュルヌという町は、ベルギーの北海沿岸から6キロほど内陸に入った、フランスとの国境近くにあります。日本人にはあまり馴染みのない名前ですが、歴史のおさらいをすればフュルヌがただの田舎町ではないことが分かります。

9世紀末、フランドル伯がノルマン人から領地を守るため要塞を作ったことに端を発し町がひらけていきました。フランドル伯領内で最強といわれたこの要塞が、フュルヌをはじめブルージュやゲントといったフランダース地方の有力な町を生むことになりました。そしてこれらの都市が繊維産業でつむぎ出した巨大な富のおかげで、フランドルは10世紀~17世紀までの間ヨーロッパで最も裕福な地方となったのです。

12世紀頃のフュルヌは、ハンザ同盟でロンドンとのリネンの通商の窓口として重要な位置を占めていました。その後町はブルゴーニュ公国統治の時代を経て、スペイン系ハプスブルグ家のアルベール大公統治時代と、ウィーン系ハプスブルグ家マリア・テレジア統治下に繁栄をみました。これらの時代に作られた建物は、2度の大戦で戦災を受けたものの、町のあちらこちらに残っており当時の繁栄振りが偲べます。特にマルクト広場やその近辺には、スペイン風やフランドル風にアレンジされたルネッサンス様式やロココ様式の建物が多く、他のフランドルの町には見られない独特で優雅なものです。小さな広場に面していくつもの教会があるのはカトリックの国スペインの影響でしょうか。

美味しいお茶うけ

「小さなブルージュ」として知られるフュルヌには、「クレッツコーペン」という直径約5cmの薄くて丸い焼き菓子と小判型のガレット「スプレットルーケン」があります。これを目当てに北海沿岸やブリュッセルからもわざわざ買いに来るほどです。国境近くに住むフランス人は、クレッツコーペンのことを「フュルヌのレース」と詩的な呼び方をします。たぶん繊細なレースの模様のように、ところどころに穴が開いているための命名でしょう。

町の中心マルクト広場のすぐ裏にあるのが、アルティザンのパン屋兼菓子屋のドゥドリー(Dedrie)。先代がここに店を構えたのが今から90年前、現在では3代目の兄弟が店を継ぎ、しかも5人兄弟のうち3人とその各々の家族が家業に従事するという家族経営の店です。長男のジョン・ピエールさんがパンとチョコレート担当、末っ子のリックさんがパティスリー系の担当ですが、二人ともオールラウンドなので忙しい時は臨機応変に対応します。店の奥にあるアトリエでフュルヌのレースとルーケン作りを見学しました。通常は週一回の製造ですが、北海沿岸はベルギー人にとってはリゾート地なので夏や冬のバカンス、そして復活祭やクリスマス、年末年始には毎日作るそうです。

作り方

フュルヌのレースの材料は小麦粉、バター、黒砂糖、白砂糖、粗く砕いたアーモンドといたって素朴で、レースと呼ばれる穴をあけるのは黒砂糖の仕業です。しかし黒砂糖が入っているため、いったん天板をオーブンに入れたら最後、片時もオーブンから目を離せません。なぜならただでさえ薄いビスケットはアッという間に火が通り、何秒かの遅れで焦げてしまうからです。この作業の間は何が起きても絶対オーブンの前を離れないというお兄さん。4枚の天板をオーブンに入れ、焼き加減を見極め一旦取り出し、天板の向きを変え1~2分後には取り出すというタイミングは、弟に言わせると「兄貴にはかなわない」。

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片や弟はアトリエの隅に置いてあるガスコンロの上で昔ながらの鉄の焼き型を使い2個のルーケンを同時に焼いています。楕円形にしたルーケンの生地を熱した焼き型に置き、もう一枚の鉄板で挟み待つこと30秒。焼き上がった熱々のガレットの横にプチナイフを差し入れ2枚に切り離します。生地にはイーストが入っているため中は殆ど空洞状態です。冷めてからクリーム類を挟み、冷蔵庫で一晩落ち着かせます。中のクリームはバニラクリームとキルシュ、カソナードクリームにはラム酒を加えたものですが、分量などは家業伝来なのでご想像に任せる、とはルックさん。

あめ色のフュルヌのレース

あめ色の金貨が並ぶ天板をオーブンから出し、ほんの数秒冷ました後、ヘラでサラサラとはがします。早速試食。カリッと爽快な歯ごたえ、噛みしめるとサクサク。アーモンドの香ばしさと焼けた砂糖の優しい甘さが口中に広がり、次の瞬間には手がもう一枚に延びていました。上質のバターと黒砂糖が決めての艶々と輝く金貨、後を引く美味しさです。同じ様な焼き菓子をスーパーなどで見かけますが、似て非なるもの。美味しさのもう一つの決め手は鮮度で、ここにはストックは殆どありません。売れ行きに準じて作れるのも家族経営の強みといえます。常温で何週間でも保存できますが「客の殆どはすぐ食べてしまう」と金貨を焼き終えたお兄さんが一息入れて笑っています。素朴でこんなに美味しいものが傍にあれば、今流行のフージョンのケーキなんかクソ食らえ! ア~それにしてもフュルヌのなんて遠いことか・・・。

ブリュッセルのゴーフルとキュベルドン(Gaufre de Bruxelles『Brusselse wafel』 & Cuberdons『Neuzen』)

photo:Tourist Office Ghent

photo:Tourist Office Ghent

ヨーロッパの暗黒時代といわれた中世が終わり、16世紀が幕を開けた1500年の2月24日、一人の男の子がゲントで産声をあげました。後のスペイン王カルロス一世(=神聖ローマ帝国皇帝カール五世)の誕生です。母方の祖父母はコロンブスのアメリカ大陸発見により新大陸を植民地としたスペイン王と女王。また父方の祖父が神聖ローマ帝国の皇帝というサラブレッドの家系に生まれたカール。戦いに明け暮れた58年間の生涯のスタートでした。その戦いの資源がフランドル地方のゲントやブルージュの織物産業の交易により得た富だったのです。

自慢のゴーフル

金の卵を生み続けていた町ゲント。当時の繁栄ぶりは、町の中心を流れるレイエ川にかかる聖ミヒエル橋の上から眺めると一目瞭然です。町の中心に目を向ければ、大聖堂と鐘楼、さらに聖ニコラ教会の3つの建物が一堂に会する圧倒的なパノラマが広がり、橋の欄干からはレイエ川両岸に並び建つ穀物倉やギルドハウスの華麗なファサードが見渡せます。この町は今でいうニューヨークやロンドンといった生き馬の目を抜く大都会でした。

この橋から歩いて数分のところにマックス(MAX)というゲント人自慢のゴーフル店があります。

ベルギーを代表する2大ゴーフルの一つ“ブリュッセル・ゴーフル”を初めて売り出したのがこの店。もう一つのゴーフルが日本で「ベルギーワッフル」として知られる“リエージュ・ゴーフル”です。でもゲント生まれのゴーフルをゲント・ゴーフルと命名せず、なぜブリュッセル・ゴーフルと呼んだのでしょうか?

「マックスは1856年以来、移動遊園地や縁日を巡業する露天の屋台でした。しかしただの屋台ではありません。お客様に屋台の内で食べて頂くため、しっかりした屋根を組み看板を掲げ、洒落たカーテンで飾ったドアをつけました。町から町へと巡回し、リンゴのベニエやクレープなどを売っていました。一番人気が雲のように軽い焼き上がりのゴーフルで、ネーミングは首都のブリュッセルにあやかりブリュッセル・ゴーフルとしました。それはそうでしょう。1千年の古都ブリュッセルならベルギー内外で知られていますが、ゲントとなると残念なことにそうはいきませんからね。商売の才に長けていた初代Max Consaelが考えたのがゴーフル型の改良でした。それまでの小さなゴーフル型を、正方形の等しい目をもつ特大のゴーフル型にしました。

今でも私が使っているMAXの刻印入のゴーフル型です」とイブさん。

初代の直系6代目にあたるイブさんが引き継いだ1980年以来、マックスは屋台ではなく店となりました。厨房にはゴーゴーと青い灯を燃やす立派なガス台があり、ずらりと並んだ巨大なゴーフル型の前でイブさんが額に汗し赤い頬をして大奮闘です。一枚のゴーフルを焼き上げるには重い型を何回も裏返す必要があるため気が抜けず、インタビューをするのも気がひけるぐらいでした。

もう一つのゲントの名物

ゲントの住人でテメルマンおばさんのボンボン屋を知らない人はもぐりでしょう。17世紀に建てられたバロック様式の家に初代のテメルマンさんがボンボン屋を開いたのが1904年。“7つのお慈悲の行い”が彫られたファサードはなかなか堂々としていて隣の建物と共に歴史的記念物に指定されています。一歩店に入ると、ガラスの容器に入った色とりどりのアメや優しく鼻をくすぐるビスケットの懐かしい匂い。そこはまるでレトロな駄菓子屋の世界でした。

店には小さな子供を連れた人ばかりでなく、大の大人もフラッと入ってきてアメ玉を何個か三角に折った紙袋に入れてもらい嬉しそうに出て行きます。スーパーでも見かけるアメ類もあるので聞くと「私のところの製品は昔ながらの製法を守っているので自然のものしか使いません。たとえば名物のキュベルドンはフランボワーズとお砂糖そしてアラビアゴムのみです」とキッパリ。着色料漬けのものと同じにしてすみません・・・。ちなみにアラビアゴムとは古代エジプトの時代から使われていたアカシアの木から分泌される松脂みたいなもので、ガムやワイン、錠剤などと幅広く使われ、光沢を出したり変色を防いだり芳香を安定させるものです。

名物にうまいものあり

お皿から溢れんばかりに大きいブリュッセル・ゴーフルはナイフとフォークで食べるのが常です。ここがリエージュ・ゴーフルとの大きな違いで、前者はどうしても座って食べることになり、後者は歩きながらでも食べられます。

粉砂糖がかかったゴーフルにサクサクとナイフを入れて一口。カリッとした食感は薄いかわらせんべいのようで、大きくても何枚でも食べられそう。甘くない生地は砂糖と溶かしバターを添えるのが定番でしたが、今はその代わりに果物や生クリームを添えるとのこと。

キュベルドンとはフラマン語で鼻という意味。イラストにも天狗の鼻のような赤い鼻の男性が描かれています。円錐の山のてっぺんをチョッとかじるとフランボワーズの味が口いっぱいに広がり、添加物なしのすっきりとした後味です。中身はグミ感覚のゼリーといった食感。甘いのでインパクトの強いコーヒーより、緑茶や紅茶のような飲み物の方がお互いの風味を活かし合いそうです。

ゴディバの創始者 ピエール・ドラップス氏健在なり

今回は「郷土菓子」というよりは「ベルギーが世界に誇るチョコレート」についてです。ベルギー・チョコレートの名前を世界に知らしめた功労者の一人ピエール・ドラップス氏(Pierre Draps)をご存知でしょうか? 名前だけでピンと来る人は少ないと思いますが、ゴディバならご存知の方が多い筈。ピエールさんはそのゴディバの創始者の一人です。

2008年2月、ゴディバはピエール・ドラップスと銘打った8種類のチョコレートを2ヶ月間限定で発表しました。これは今もご健在な伝説のチョコレート職人ピエールさんが、グラン・プラス本店改装記念に創作したものです。その発表の席で彼にお話を伺いました。「私はチョコレートの中で生まれたようなものです。チョコレートは私を魅了し続け、私は自分の人生の全てを捧げました。なんと素晴らしい夢の中を生きて来たことでしょう」

ベルギー・チョコレート産業の夜明け

産業革命による蒸気機関の発明がベルギーを「チョコレートの国」として世界に羽ばたかせることになりました。それは、1835年、焙炒したカカオ豆の粉砕機が初めてブリュッセルに導入されたことに端を発します。その後15年間は、この機械一台でベルギー全土のカカオ豆の粉砕をしていました。

たった一台の機械が、その後に続く工業ブームの先駆けとなり、現在でもその名を残すチョコレートメーカーが続々と誕生しました。高級クーベルチュール生産会社カレボー(1850年)を始めとし、ノイハウス(1857年)、コート・ドール(1870年)、ジャック(1896年)。更にブリュイエール(1909年)、マリー(1919年)、ゴディバ(1926年)と続きました。

ベルギー・チョコレートが有名になった最大の要因を挙げるとすれば、ベルギー人の「創造性」につきます。板チョコに代るプラリネの発明もその一つですが、それを入れるバロタンと呼ばれる特別な小箱を作り出したのも彼らです。それまでのチョコレートといえば、ただ単に紙を三角形にクルクルと丸めたものに入れて売っていました。そのためつぶれたり壊れたりもしましたが、この小箱のおかげでつぶれずしかも持ち運びも便利になりました。

また、小さなサイズで何処でも簡単に食べられるチョコ・バーやパンに塗るチョコレート・ペーストなど、今では全く当たり前になっている商品の殆どがこの時期にベルギーで誕生しました。更に特筆すべきは、クーベルチュールをタンク車で液状輸送するという画期的な手段を考案したことです。このお陰で、チョコレートが扱いやすく保存も簡単になりました。加えて、チョコレートの輸出に早くから力を入れた先見の明と、1935年のブリュッセル万博での成功とが、ベルギー産チョコレートの名声を確立させました。

ドラップスさんちのチョコレート

ピエールさんはチョコレート職人の三男として1919年に生まれました。「ショコラティエといえば今日では他の仕事と同様ステータスがあるようですが、当時は地位も賃金も低い職人でした。両親は寝る間も惜しんで地下室でチョコレートを作っていたものです。働き者の母は父を助けながら、4人の子育てや内職の子供服作りと、休んでいるのを見たことがないほどでした。ですから我々も小さい頃から手伝わされ、朝の5時起きでスミレの花の砂糖漬けやハシバミの実をチョコレートの上に飾ったりしてから学校に行ったものです。

何をやらせても手先が器用な父のチョコレートは、ブリュッセルの食品見本市で最優秀賞を取るほど宝石の様に美しかったのを覚えています。冷蔵庫もない時代なので作り置きができず、家の中は一年中チョコレートの香りにむせ返っていました。ところがまだ幼い子供たちを残し突然両親が早世。我々は路頭に迷いました。しかし助けてくれる人があり、兄妹4人で力を合わせてやっていくことにしました。商業センスのあった兄達と父親譲りで根っからの職人の私とで、大戦後にはグラン・プラスに第一号店を出しました」

トリュフ

期間限定のトリュフ4種類とプラリネ4種類は、ブリュッセルの各店とパリのサントノーレ店のみで4月下旬まで販売します。ピエールさんにどれが一番お好きかこっそり伺ったところ、“ボタニック(植物園)”と命名した、チョコレートクリームをカカオパウダーで覆った一番シンプルなトリュフとのお返事でした。これは昔と同じレシピで作ったものです。トリュフといえば現在どこのショコラティエにもある定番中の定番ですが、実はピエールさんが最初に作り発表したものでした。

今回の限定品はピエールさん指導の下、選ばれた10人のショコラティエ(その中の4人は昔もピエールさんの元で働いていた)が全て一つ一つ手作りするという、伝統的な職人芸を極めた贅沢なものです。しなやかにそして的確に動く彼の指先から生まれるトリュフやプラリネ。それを忠実に再現していくスタッフの技。彼が居るだけで優しいオーラに包まれるアトリエでは笑顔と冗談が飛び交っていました。

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ベルギーの人間国宝ともいえる最後の匠ピエールさん。お住まいのスイスの家で、今でも毎日のようにチョコレートを作っていらっしゃるとのことです。

タルト・アルジョット(Tartes al Djote)

ブリュッセルから南へわずか30キロにあるニヴェルの町は、大修道院を中心に中世以前から栄えていました。小さな町のなかには大修道院のほかに四つの教会があり、いたるところに中世の面影が残る緑豊かなところです。修道院を中心に穏やかな起伏の大小の道が放射状にのび、うっかりすると思わないところに出てしまったりもします。首都ブリュッセルへの通勤に便利なため、現在は中流家庭の人が住むベットタウンとなっています。

大修道院の自慢のタルト

photo OTN

photo OTN

ニヴェルの住民にいわせると、タルト・アルジョットは“熱々で、柔らかくて、バターが滴り落ちる”に尽きるそうです。このタルトはニヴェルいえベルギーを代表する名物で、修道女が考案しました。しかしタルトと名はつきますが、塩味のタルトなのです。ピザの先祖みたいと思ってください。

タルト・アルジョットのジョット(djote)が始めて記録に登場するのは16世紀になってからで、大修道院の台帳に「チーズと野菜購入」とあります。ニヴェルを中心とする丘に囲まれたこの辺りは大昔から酪農や農業が盛んで、修道院の指導の下、チーズ、ビール、そば粉のクレープと美味しいものに事欠かなかった地方でした。

栄養豊富なジョット

スイスチャード(和名:フダンソウ 仏名:bette)のことを、ニヴェルでは昔からジョットと呼んでいました。ビーツの仲間で葉も茎も食べられるヨーロッパ原産の越年性植物で、ギリシャやローマ人もその薬効ゆえ栽培していました。生でも加熱してもビタミンAやマグネシウム、カリウムが損なわれず、ビタミンC、鉄も豊富で、銅、ビタミンB6の優れた供給源でもあります。

このタルトにはニヴェル特産のブレット(boulette)というチーズが欠かせません。脱脂生乳から作られたこの軟質チーズは、今でも完全にアルティザン的に作ります。凝乳し脱水したものを25度の室内で熟成しますが、この段階が一番肝心で職人の勘が問われるところです。最初はトウモロコシの粒のような白いポロポロしたチーズが、徐々に脂をにじませ黄色くなり独特の芳香を放つようになるのを目と鼻で見極めます。嫁いできて以来ブレットを作っているマルティンさんが、これをおにぎりのように丸く握ります。このチーズはタルト作りには不可欠ですが、単にパンの上に載せて焼いても即席のピザとなるし、そのまま玉ねぎやハーブと混ぜて食べても美味しいそうです。

星つきのタルト

先祖伝来のタルトの保存・継承そして宣伝するため、1980年「タルト・アルジョット保存協会」が設立されました。メンバーはジャーナリストや会社員など、タルト製造に関係ない人たちで、彼らは毎月一回全ての店のタルトを試食し、年に一回3月に一年間有効の賞状を発行します。ちなみに、2007年は4軒の5ッ星、4軒の4ッ星、1軒の3ッ星となりました。常に最高点を獲得し続けている保存協会お墨付きの店「Tout au beurre」で作り方を披露してもらいました。

作り方

この道40年というご主人に、5ッ星を獲得する秘訣を聞いてみると「作り方はいたってシンプルなので秘訣なんてないですよ。あるとすればチーズ製造農家が作るチーズの差でしょうね」。

(1)生地:小麦粉、塩入りバター、イースト、全卵と黄身、ミルク少々と塩。中身:ブレット・チーズ、ジョット、パセリ、玉ネギ、全卵、塩入バター、塩&コショウ。

(2)生地を延ばしバターをひいた型に敷き入れ、ピケをする。ジョットは葉だけをざくざくと刻み、茎を除いたパセリと玉ねぎのみじん切り、その他の材料と一緒によく混ぜあわせる。

(3)生地に中身を約8ミリの厚さで載せ、200度のオーブンで約10分間焼く。

熱々をほおばるのが身上

どの店のタルトも半焼き状態で売るので、180度のオーブンで必ず焼きあげます。試食をさせてもらいました。熱々のタルトが目の前に登場。さらに大きな塊が入ったバターケースもドンと置かれました。

「食べ方のこつは、熱いうちにバターの塊を上に載せ、表面をフォークでさして溶けだしたバターを中に染込ませることなの」と奥さんがなんと3センチ四方の塩入バターを載せてくれました。溶けたバターの艶でさらに美味しそうになったタルトに早速挑戦。チーズのなんともいえないモチモチ感にまず驚き、野菜の優しい味わいとバターの塩味との濃厚な旨みに思わず「美味しい~!」。ただし猫舌の人はご用心。熱々のモチモチチーズでやけどをすること請け合いです。

卵入りのパリッとした生地との相性も抜群ですが、さすが半分も食べると私にはすこし塩辛い気がして中休みをすると、奥さんが「水でなくビールはいかがですか?」と聞いてくれました。そういえば最初この店に入ったとき、パン屋なのにニヴェル特産の地ビール“Jean de Nivelles”がいやにたくさん置いてあるなと思ったものでした。なるほど冷たいビールで喉を潤せば、また幾つでも食べられそう。ボルドーやブルゴーニュの赤ワインとのマリアージュもお勧めとのことでした。

マリー・敷香のゴーフル(gaufres de MARIE SISKA)

ベルギー北海沿岸の町の一つに、クノック・ヘイスト(Knokke-Heist)があります。なかでもズットとクノック地区は、ベルギー人にとって最高級住宅地の代名詞となっています。ズットに邸宅や別荘を持っていることがステータスシンボルで、夏や冬のバカンスをクノックで過ごすのはとてもお洒落なことなのです。特にクノックの住宅街は壁を白く塗ることが義務付けられているため、四季折々の花や庭の緑が良く映え、この辺りを「北海の庭園」と呼ぶのもうなずけます。

メインストリートにはベルギーや世界各国の高級ブティック、多くのレストランとティールームが並び、道行く人たちのファッションもいかにもハイソサエティ!日本の軽井沢というところでしょうか。

豪邸に加え、この町の誇りは砂丘です。潮の満ち引きにより刻々と変わる風景。砂丘が紫の花で埋まる夏や、珍鳥が冬を越す秋・冬など、北海で一番美しい自然の宝庫といわれています。ブリュッセルからわずか100キロという便利さも手伝い、車で通勤する人もたくさんいます。

クノックの名物女傑

クローバー型をした「シスカ母さんのゴーフル(mother Siska)」を知らないベルギー人はいません。このゴーフルを売り出した肝っ玉母さんのサクセス・ストーリーをご紹介しましょう。

2人の夫に先立たれたフランシスカ(Francisca)は、粉引きだった夫の水車の傍で小さな木賃宿を営んでいました。粉引き職人が必要だった彼女のところへ、パン職人で元粉引きのルイ(Louis)が働きに来ました。その後彼女はルイと3度目の結婚をすることになります。2人の結婚は実益を優先したものでしたが、当時はこんなことは珍しいことではありませんでした。心温かいルイは、彼女が2回の結婚で得た10人の子供達をわが子の様に慈しんで育てました。フランシスカは10人の子供達からシスカ母さん(フランシスカを縮小)と呼ばれていたため、客も自然にこう呼ぶようになったそうです。

ルイとアムステルダムへ遠出をしたフランシスカの目を引いたのが、四葉のクローバー型のゴーフルでした。さっそく5枚の葉の焼き型を注文、夫の作る生地で売りだしました。挽きたての粉で作るサクサクと軽いゴーフルは、その愛らしい形とともにフランダース地方で評判になりました。

ある時、このゴーフルを気に入ったアントワープの公証人が、わが子の誕生会を依頼しました。フランシスカは、木立が繁る店の広い庭にテーブルを並べ花も飾り、ゴーフルの他にルイの作ったバースデーケーキまで用意しました。さらに、オモチャや滑り台、ロバや子馬での散歩も企画しました。子沢山の彼女ならではの配慮です。その日の成功が口コミで広がり、高級住宅地という地の利も得て、その後は金持ちからの依頼が絶えませんでした。

彼女は顧客の求めているものを機敏に感じ取れる、今でいう“空気が読める”実業家肌の女性だったのでしょう。1904年当時の彼女の写真を見ると、水車を背にして片手をスカートの腰にあてた130キロはゆうに越す女性です。ギュッと引き締めた唇にその意思の強さが伺えます。それだからこそきつい仕事にも関らず、「シスカ母さんのゴーフル」の名前を残すことに成功したのだと思います。

フランシスカの後を継いだのが3女のマリーでした。第2次世界大戦後、建物をイギリス風コテージに建て直し、以後ここはマリー・シスカ(Marie Siska)と店の名前も変えました。

幸せを運ぶ5葉のクローバー

国鉄の駅からクノックのメインストリートの雑踏を抜けて右に曲がると、緑に囲まれた瀟洒な住宅が延々と続く一角に入ります。こんな高級住宅地にゴーフル屋があるのだろうかと心配しましたが、ありました。ホテル兼レストラン&ティールームのとても大きい白い建物です。その広大な敷地にはミニ・ゴルフ場やミニ・遊園地もあります。

現在のオーナー、4代目のステファン・ドッシュ氏(Stefan Dossche)が、快くゴーフルを焼く現場を見せてくれました。但しシスカ母さん伝来の生地の作り方は、門外不出なので聞くことはできませんでした。焼き型が並ぶキッチンで、ゴーフル作りの実演を見学しました。鉄の焼き型が5弁という以外は他のゴーフルと焼き方は同じですが、葉の周りを焦がさないタイミングなど職人の勘が必要なのでしょう。

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庭のテーブルに運ばれてきた大きなゴーフルを見て、一人で食べきれるかと懸念しましたが、空気のように軽い生地なので結局はペロリでした。ゴーフル自体に甘さが少ないため、カソナード(茶色の砂糖)や生クリーム、チョコレートなどをかけます。5弁のひとつを何もかけずに食べると、普通のゴーフルの食感を予想していたためか、その軽さに頼りなさを感じましたが、残りにはカソナードと生クリームをかけ、添えられた苺をつまみ至福の午後を過ごしました。尚、ゴーフルは13時30分からのティータイムのみです。

ショーモン・ジストーのタルト(Les Tartes de Chaumont Gistoux)

ショーモン・ジストーのタルトほど素朴でぬくもりがあるタルトはありません!と声を大にして言いたいほど、ここのタルトは郷愁を感じさせます。ベルギー生まれでもない私が懐かしいとはおかしなものですが、食材の果物や砂糖などに国境はなく、直径25センチという大きさも、今流行のミニ・サイズのパティスリーと比べ何と大らかなことでしょう。

ワロニー発信の人気タルト

ブリュッセルの南東30キロに、ショーモン・ジストーの町はあります。この町も他のワロニー地方(ベルギーのフランス語圏)と同じく、穏やかに起伏が続く緑豊かなところです(ベルギーオランダ語圏のフランダース地方は平地)。森や丘の間に点在する教会や家々、ポプラ並木の続く川など絵葉書のように愛らしい風景が続きます。ブリュッセルへの通勤圏内にあるため、昔から住人の多くは都心で働くサラリーマンでした。首都にはフランダース地方からの出勤者も多く、美味しいもの好きな人々の口コミでこの名前がベルギー中に広まりました。

夏のある日曜日、噂のタルト取材に出発。住所が町の中心から外れた国道沿いなので注意しながら車を走らせると、本屋や美容院の並ぶ賑やかな界隈に通りかかりました。たぶんこの辺りにあるだろうと目を凝らしましたが、アッという間に通り抜けてしまいました。見過ごしたのかとUターンしかけた時、タルトの絵が描かれた立て看板を発見。しかしこの看板がなければ気がつかないほど、道路沿いにポツンとある何の変哲もない民家です。ところが店に入ってビックリ。日曜日の朝10時というのにタルトを買う客が行列し、次から次へと客足も絶えません。ベルギー人の日曜はだいたい朝寝坊と決まっているので朝食用のパンは買いに行けども、パティスリーだけを買いに朝から来るとは…。しかもこの店の開店時間が10時なのです。

料理人からパティシエに

オーナー・パティシエのロンブーツさん(Rombouts)は「ベルギー王立料理学校」出身の料理人。「30年以上も前ですが菓子職人の地位は低く、私は料理人の道を選びました。でも幸運なことに、最初働いたレストランのシェフ・パティシエが私に菓子作りの面白さを教えてくれました。これこそ天職だと思いましたね。この仕事は夜中に始まり午後3時に終わる重労働ですが、近郊はもとより遠くから車で買いに来てくださるお客様が私の元気のもとです」

秘密のレシピ

現在は40種類以上もあるタルトですが、開店63年来守り継がれている定番は「サクランボ」、「赤・白の砂糖」、「チーズ」、「プリン」とのこと。赤砂糖(カソナード砂糖)のタルト作りを見学しました。

広い庭から陽光がサンサンと差し込む古いけれど清潔なアトリエでは、ロンブーツさんと5人のパティシエがフル回転で働いていました。通常は12人だそうですが、バカンス・シーズンで顧客の少ない7月・8月には彼らも交代で休みを取ります。

パン生地を敷いたタルト台に「えぇ~こんなに」と驚くほどの赤砂糖を盛り、上からカスタードソース的な液をたっぷりと回しかけます。先代の考案したこのソースのレシピは門外不出ですが、卵、砂糖、ミルク、溶かしバター、バニラと+アルファだと思います。

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自分は職人と言い切るご主人のこだわりは「食材の質」。もちろん着色料・保存料などとは無縁です。例えばサクランボのタルトの「サクランボ」は、今ではあまり栽培されなくなった昔の品種で、果樹園農家に特注し全て買い取ります。果実もそれから搾るジュースも全てホームメイド。

瓶詰めなど既製品が多い昨今、こんな贅沢なタルトは最近あまり見かけません。実用的だと感心したのは、タルトの熱を取るためのネットを張った木枠。いかにも使い込んだ木枠は、タルトを冷ますのもよし、何段も重ねれば虫よけにもなり、木枠ごと店に置けるという実益も兼ねます。

いざ試食

カウンターにはピザのように大きなタルトが勢ぞろい。色々な種類を試したい人や少人数用に、ホールでも4分の1からでも買えます。試食に、サクランボ、ルバーブ、チーズ、チョコレートムース、赤砂糖(4分の1にカットすると蜜が流れ出過ぎるので半分から販売)を選びました。サクランボとルバーブは驚くほど控えめな甘さと薄い生地のおかげで、食材本来の味がしっかり感じられまるで果物を食べているよう。

チーズやムースも同じく甘さ控えめ、各々の余韻を楽しみながらペロリと平らげてしまいました。最後は切り口から蜜がトロ~と流れだしているカロリー満点そうな赤砂糖。山盛りの砂糖を見たせいか、かなりの甘ったるさを覚悟しましたが、上質の砂糖がもつ嫌味のない素朴な甘みがまず口いっぱいに広がり、思ったよりキリッとした甘さは意外でした。が、さすがに8分の1が精一杯。でも次回はこのタルトだけを味わいたいと思わせる後を引く美味しさ。う~ん、さすが63年来の定番です。

ヴォーション(le Vaution)

シリーズ[2]でご紹介したショコラティエ、ジョン・フィリップ=ダルシさんに再登場をしていただきました。ダルシさんの故郷、アルデンヌ地方エルブ高原一帯は湿気をほどよく含んだ上質の牧草が成長し、その草をはんだ牛の濃厚なミルクは、アルデンヌ地方特産のバターやチーズとなります。渓谷を流れるヴェスドル川が注がれるヴェルヴィエの街は、いたる所に噴水があり見ているだけで心が癒されます。そのせいか住む人々もとても気さくで穏やか。横断歩道以外の道路を歩く通行人に対しても、必ず車が止まる光景は、いたわりが伝わる心温まるシーンです。

新作マカロン発表

2008年9月、ダルシ氏の季節限定パティスリーがヴェルヴィエ郊外のシャトー・ペルツェーで発表されました。

ヴェルヴィエは毛織物産業で中世から栄えた街です。17世紀になるとイギリス羊毛産業を脅かすほどの勢いとなり、裕福な名士たちが次々と郊外にシャトーを造りました。なかでも6ヘクタールの広大な敷地に建つネオゴシック風のペルツェー城は、その外観とルイ王朝時代を偲ばせる豪華な内装とで他の追従を許さないといわれています。現在は4つ星ホテルとなっています。

今回披露された秋・冬限定マカロンは「マロングラッセ」、「ポム・キャネル(りんごとシナモン)」、「ティラミス」の3種類。ダルシ定番のマカロンも揃っていました。ところで、これまで白い上着のダルシ氏を見慣れていた私は黒いタキシード姿の彼にびっくり。びしっと着こなしている様子に、やはりタキシードはヨーロッパ人のものなのだと今更ながら感心したものです。大勢集まったジャーナリストを前に今後の抱負などが述べられ試食になり、栗大好き日本人の私はマロングラッセのマカロンがとても気に入りました。

次のプログラムはテレビ中継のカメラが回されるなか、何百人と集まった招待客の前での制作実演でした。ピエスモンテを作る流れる様な技を、シャンパン片手の招待客は驚嘆の声で見つめていました。

引き続く晩餐会は、巨大なシャンデリアが輝く元舞踏会のホールだったレストランで開かれ、最後はダルシ氏のデザートで締めくくられました。

冬の人気菓子 ヴォーション

店のショーウインドーには、ルレ・デセールのベルギー最年少メンバーの彼が作る創作パティスリーやショコラが並ぶ一方、昔からの郷土菓子も並びなんとも温かい雰囲気を醸しだしています。

ヴェルヴィエ特産の菓子には前回取り上げた「米のタルト」や「ヴェルヴィエのガトー」、そして今回の「ヴォーション」が挙げられます。土地の方言でヴォーチョー(Vautchau) とも呼ばれる、お盆のように大きい菓子作りを見学しました。ダルシさんは「昔から家庭で作られていたものなので特に凝った材料はいりません。新鮮なミルクとバター、それとヴェルヴィエっ子がことのほか好きなシナモン。あとは根気かな」と笑います。

作り方

(1)材料:パン生地で350gの塊り2個、300gを3個用意する。砂糖350g、無塩バター125g、粉末シナモン少々。砂糖とシナモンは合わせておく。

(2)大小の生地を厚さ3~5ミリ、直径30~40センチに丸くのばす。天板にバターを薄くひき、大きい方の生地を置く。縁を3ミリほど残して、砂糖+シナモンを中央に丸く広げる。

(3)砂糖+シナモンの上にバターの小片を散らし、一枚目の小さい生地をかぶせる。

(4)(3)の工程を2度繰り返す。最後の工程が終わったら全体に生クリームを少々回しかける。

(5)(2)の生地の縁にとき卵を塗り2枚目の大きい生地をかぶせる。糊つけした上下の生地の縁を内側に折り込み、焼いている時空気が洩れないようにする。

(6)ピケをした後、とき卵で艶出しする。全体に粉砂糖を振り掛け、180°のオーブンで約30分焼く。少し冷ましてから食する。

寒い季節にピッタリ

ヴォーションは4分の1から買えますが、皆さん半分かホールで買うとのこと。丁度買いにみえたお年寄りに、大きすぎませんか?と尋ねると「そんなことはありません。これを食べると子供のころの台所の匂いや光景、そして幸福感までもが蘇り、いくらでも食べられます。当時は裕福な人もいたでしょうが大部分は貧しく、ヴォーションの香りが漂う日曜日の午後が一番うれしい日でした。寒い時期なると無性に食べたくなりますよ。今日はブリュッセルから来ている孫たちと一緒に食べます。孫も大好きです」といそいそと包みを抱えて出て行かれました。

この菓子はすこし冷めた方が美味しいといわれ、なかなか冷めないヴォーションを前にじっと我慢の子でした。切り分けた途端にフワ~と立ち昇るシナモンの甘い香り。それに続くミルクやバターの優しい匂い。大きさには驚いたものの、あまりにも素朴な外見に美味しいのかな~?と思っていた私ですが、食欲を刺激する香りに、思わずごくりとつばを飲み込みました。味はもちろんのこと、柔らかい生地なのにしっかり主張する食感が心地よく、フワフワと頼りないホットケーキが好みでない私はたちまちファンになり、今では我が家の寒い日の定番おやつになりました。

デストルーパーのビスケット(Jules Destrooper)

ベルギーといえば誰の頭にもすぐ浮かぶのがチョコレート。王室御用達のショコラティエも5店ありそれぞれ個性を競い合っています。ビスケット分野の王室御用達はジュル・デストルーパー。ブリュッセルやブルージュの素朴な風景と愉快で可愛い人々を描いた缶入りビスケットは日本でもお馴染みとなっています。

ブリュッセルから車で北西に1時間半ほど行ったフランス国境に近いロ・レニングの本社に向かいました。走れど走れど延々と続く畑や牧草地。さては道を間違えたかと不安になったほどこの辺りには草原と牛以外なにもありません。やっとたどり着いた町は閑散としていて、昼食に入ったブラッスリーでの客は常連らしき初老のカップルと我々だけでした。店主に工場への道順をたずねると誇らしげに教えてくれ、近郊の町のたくさんの人がデストルーパーで働いていると付け加えるのも忘れません。

手土産がきっかけ

今から約130年前、ジュル・デストルーパー氏は洗濯屋と駄菓子屋を兼ねる店を営んでいました。ビスケット職人になったきっかけは、北海にあるホテルへ洗濯物を届ける時にサービスで持っていったホームメイドのビスケットでした。北海沿岸はドーバー海峡を越えて遊びに来るイギリス人が一年を通じて多いところです。紅茶と共に出した彼のビスケットがとても好評だったため、ホテル側が本格的なビスケット製造を依頼してきました。

日本の技術

1886年、ジュルはビスケット会社を創立。1911年パリ国際食品見本市で彼のアーモンド・ビスケット(pain aux amandes)が金賞となったことが火付けになり、パリのフォーションやロンドンのフォートナム&メイソンといった有名店からの注文が舞い込むようになりました。しかし外国への輸出に向けて新しい問題が持ち上がりました。「賞味期限」です。

創業以来の添加物や保存料なしのビスケットは日持ちがしません。それを打開したのが、見本市で偶然目にした日本の会社が開発した保存技術でした。この出会いにより賞味期限が大幅に延長。今ではヨーロッパ近隣諸国はもとより世界中に輸出されています。

若い後継者ステファン

北海の町コクシードは、高級避暑地のクノックやカジノと温泉もある大避暑地オステンドとも違い、小さいけれどなかなか文化的です。市は特にアートや音楽に力を入れ、文化センターでは国内外の芸術家を招いた展覧会やパーフォーマンスなど数多く発表されます。ここにはベルギー人画家のポール・デルヴォー美術館、ヨーロッパ最古のフランシスコ修道院跡(現博物館)、北海最大の砂丘、ミシュラン星付きレストランまでもあります。

メイン通りには片田舎にそぐわないシャレた店構えのパティスリー“ステファン・デストルーパー(Stephan Destrooper)”があります。ステファンはジュルの孫で、パリ風のパティスリーの傍にはあのビスケットの箱も並びます。ブルージュの製菓学校卒業後、パリの有名店で修業。3年前に店を持ちました。去年は当地の有名画家とのコラボを開催したそうで、これもパリ仕込みかしら?

ベルギーのお茶うけ

会社の経営は彼の従弟2人。若い感覚で新製品の開発や市場開拓など意欲的に取り組んでいるそうです。ところで、ステファンにジュル・デストルーパーの製品で何をトップにあげるかを聞くと、アーモンド・ビスケット!と即答あり。

「美味しいビスケットの秘密は、小麦粉そしてミルク、バター、卵などビスケット製造に不可欠な原料が全て近郊で生産されているからだと思います。ノワゼットやアーモンドは産地を厳選しています。アーモンド・ビスケットの材料は、小麦粉、砂糖、バター、アーモンド、塩、大豆、ノワゼットといたってシンプルですが、今でもジュルのレシピを忠実に守っています」

ベルギーではどこのカフェに入っても、コーヒーや紅茶など温かい飲み物には必ずお茶うけのビスケットやチョコレートが添えてあるのをご存じでしょうか? たかが一枚といえど嬉しく、それがパリパリッと歯応えの良いバターの香り豊かなジュル・デストルーパーのビスケットだったりすれば尚更です。

2009年クープ・デュ・モンド ベづギーチーム表彰台へ

フランス・リヨンで「クープ・デュ・モンド2009」が1月に開催され、ベルギーチームは2位のイタリアと総合点わずか1点の差で3位となった。チームの健闘を称え3月30日スポンサーの1社であったブルイエール社(Bruyerre)で、出場者たちによるデモンストレーションが行われ、国内外からのパティシエやショコラティエたち約200人が会場を埋めた。

出場者のプロフイール

ラファエル・ジオ(Raphael Giot) 38歳

出場者3人のチーフ役を務め、飴細工とアントルメを担当したのがラファエルさん。2000年に自店(Carrement Bon)を開きました。それまでは、その温厚な性格と抜きんでたテクニックとで、ブリュッセルの有名店でアトリエ・チーフを務めていました。今大会でも自己の作品を製作しつつ、他のスタッフの進行具合を見て「タイミング」を判断「進行」を指示するなど、持ち前の柔和な指導力で他の2人に必要以上のストレスを感じさせずスムーズに全作品を完成に導きました。

「クープ・デュ・モンドへの参加を申請する前、まず妻に相談しました。もし選ばれれば1年間はプライベートの時間が無くなるのを覚悟しなければなりません。パティシエとしての私は大満足ですが、夫としてそれから二人の子供の父親として、妻がサポートしてくれるかどうかにかかっていたからです。彼女の理解と協力がなければ前進できませんでした」

フランソワ・ガルテェール(Francois Galter) 28歳

フランソワさんはチョコレートのピエスモンテとアイスクリームを担当しました。現在はパティスリーのデモンストレーターとしてベルギーを起点にヨーロッパ中を飛び回っています。その一方、同僚と一緒に会社を設立。チョコレートの滋養を生かした化粧品、石鹸、ロウソクなどのネット販売をしています(KKO Creative Chocolate)。斬新な創造力と手際の良さを大会でも発揮しました。

「子供の頃から菓子作り、絵や工作、園芸などに興味がありました。菓子の専門学校を出てからいろいろなところで修業しました。デモンストレーターとしてヨーロッパ中を訪れる機会に恵まれている今は、自分を磨く絶好のチャンスだと思っています」

アラン・ヴァンデールスミッセン(Alan Vandersmissen)43歳

アシィエット・デザートと氷彫刻を担当したアランさんは、ブリュッセルの4つ星ホテル(Hotel Radisson SAS Royal)内の2つ星レストラン(Sea Grill)で、シェフ・パティシエ歴10年というベテランです。ブリア・サヴァランをもじっていえば“食事の締めくくりのデザートが美味しくないのは片目の美女”。ミシュランの星を獲得するには食事はもちろんのことデザートも重要な要素なのです。

「地域のお客様の好みの傾向により、ケーキ屋のパティシエが作るものには制限があります。たとえば新しいスパイスや外国の果物を使いたくても、伝統的な味に慣れたお客様が多いところでは敬遠され売れません。ところが国際的なホテルになると、お客様はいろいろな味をご存じで、創作性のある斬新な味に興味をもたれます。美食とハーモニーを醸しだすデザート創作が私の任務なのです。タヒチ産のバニラ、高価な食材また料理用の香辛料など、シェフと試食を重ねて作ります。こんな環境で働けるのは幸運ですが、2つ星というストレスもあります」

熱気溢れる会場

パティスリー/ブーロンジェリーの定休日である月曜に行われた無料「公開デモンストレーション」。始まる前から会場は熱気に溢れていました。

コーチと3人の参加者が紹介されると拍手が嵐のように巻き起こり、早くも会場は「期待モード」に切り替わります。マイクを通じての微に入り細にわたる説明と、大型スクリーンに映し出され、惜しげもなく披露されるテクニックやコツ。今回のテーマ「南極」のレシピ片手に全員固唾を飲んで見つめ、会場はシーンと静まりかえりセキ払いひとつ聞こえません。

フィナーレは飴とチョコレートのピエスモンテの登場です。ミステリアスで神々しいばかりに白く輝く「南極」。喝采の声と拍手が舞い上がったのはいうまでもありません。その後シャンパンをかけ合い、楽しそうにはしゃぐ3人。リオンでの感動を再度味わったことでしょう。

「試食をして彼らの偉大さが実感できました。自分も頑張れば出来るかもしれないと希望を与えてくれた感動的な一日でした」。最前列で熱心にビデオカメラを回していた若いパティシエの興奮した言葉でした。

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ハッセルとのスペキュラース(speculaas of Hasselt)

ベルギーの子供にとり12月はプレゼントを2回も貰える一年中で最も楽しい月。なぜならクリスマスの他にサン(聖)ニコラの日があるからです。

まるで盆と正月がいっぺんに来たように、子供の心がワクワクと弾む月なのです。その幸せの一端を担っているサンニコラからのプレゼントは、本やオモチャ、そしてスパイスたっぷりの甘いスペキュロース。

Tourism Zonhoven ©

Tourism Zonhoven ©

ベルギーの北東、オランダと国境を境にするキャンピンヌ地方のハッセルトに、ちょっと変わったスペキュロースがあると聞き訪れました。

キャンピンヌ地方

キャンピンヌ地方はフランダース地方と同じくフラマン語圏です。でも平らな土地のフランダースとは異なり、低いながらも丘があり、針葉樹の林や湖、広大な自然保護地区もあります。また昔は炭鉱業も盛んでした。

Stad Hasselt ©

Stad Hasselt ©

しかし砂や小石が多い地層のため酪農には適せず、中世からライ麦や大麦といった穀物の農作に従事していました。また、貧しい農民たちは、穀物とこの地方一帯のみに自生する薬草※を使い、「ジュニエーブル」というアルコールを密造していました。ジュニエーブル作りの廃物として出る糖蜜を使って、スペキュロースは作られます。

※くこの実。フランス語でジュニエーブル、英語はジェニパーベリー。ジュニエーブル酒はジンの元祖。ハッセルトでは毎年10月「ジュニエーブル祭り」を開催。その時噴水から噴き上がるのは何とジュニエーブル酒。もちろん無料で飲めます。

スペキュロースとは

スペキュロース

スペキュロースの起源はパン・デエピス。これは古代ローマ人が神に捧げた菓子で、小麦粉にハチミツ、シナモン、サフランなどを入れて焼き上げた日持ちのするものでした。スペキュロースは、このパン・デエピスを薄く焼いたようなもので、文献によればネーデルランド地方(現ベルギーとオランダ)では14~15世紀ごろからスペキュロースが作られていました。

ハッセルトのスペキュラース

ハッセルトのホテル学校(製菓部門)でスペキュロース作りを見学しました。陽光が差し込む清潔な教室は甘い香りに満ちています。ところで、一般的に「スペキュロース」と呼ばれるビスケットを、ハッセルトの人は「スペキュラース」と呼び、スペキュロースというと必ず訂正されます。スペキュロースとスペキュラース。あ~、ややっこしいィ。

スペキュラースの材料は、小麦粉、バター、カンディーシュガー(精製していない茶色の砂糖とキャンディーシュガーを混ぜたエクストラ・ダークのもの)、卵、ミルク、シナモン、ベーキングソーダ、アルカリ(アンモニア)、塩、アーモンド。

作り方は混ぜるだけ。といっても順序があります。まず、カンディーシュガーとバターをよく混ぜ合わせる。そこへ小麦粉、シナモン、ベーキングソーダ、アルカリを合わせたものを加えて混ぜる。ミルクと卵液を別々に加え全てを混ぜ合わせる。生地をまとめ、直径3~4cmぐらいの棒状にする。それを約7センチの長さに切り分け、楕円形にまとめる。アーモンドを乗せ、210°で約15分焼く。

材料を混ぜ焼き上げるまで30分もかからない簡単さですが、先生がこだわっていたのは甘さと色のもとになるカンディーシュガーの「質」でした。しっとりとしたさわり心地。すくって落とすと、溜まった砂糖がサワサワとまるで動いているようです。「このような動きを作る重量感のある砂糖を使うのが、ハッセルトのスペキュラースたる由縁です」と先生。

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スペキュラース対スペキュロース

薄くてパリパリッとしたスペキュロースと、大きくて厚いスペキュラースを食べ比べました。前者はシナモン以外にナツメグ、クローブ、ジンジャー、カルダモン、胡椒入りなので香り高く、表面が艶やか。後者は割るとシナモンの香りがほんのりと漂い、艶はあまりありません。甘さはスペキュロースと比べとても控え目で、お菓子というよりは常備食的。それもそのはず、これは19世紀のベルギー独立戦争の時、ハッセルトのパン屋が兵士の食糧として作ったのが始まりでした。ですから当初はもっと硬くぼそぼそとしていたそうです。

「甘さ控えめでダイエットに良いかしら・・・。素朴で何となく懐かしい味、ポリポリボリ・・・」。気がつくとダイエットどころか、大きな小判型のスペキュラースは、すでに何枚もお腹のなかに納まっていました。結論としては、ブリュッセルのものが都会のお菓子なら、ハッセルト産はその素朴な味とひなびた甘さで田舎的。でもこれはこれで捨てがたい美味しさがあります。コーヒーのお供ですが、もしかしたらジュニエーブルとも相性がいいのかもしれません。

リエージュ・ゴールフとガレット・ラックモン(Gaufres de Liege & les Galettes Lacquemant)

ベルギーといえば、ダイヤモンド、ビール、ゴーフルですね。今回は、その知名度に比べあまり知られていない「ゴーフル」の起源についてです。ベルギー人にとり、ゴーフルといえばリエージュ州の主都リエージュのゴーフルと決まっているため、取り立てて「リエージュの」と冠をつけず単にゴーフルと呼びます。

こんがりとキツネ色に焼きあがったアツアツのゴーフル。弾力のある甘い生地とシャリっと歯応えのある真珠砂糖、立ちのぼる甘いバニラの香り。シンプル極まりないのですが、この三位一体の組み合わせがなんともいえません。特に冬の寒い日、街角に漂う甘いゴーフルの香り。人々はまるで花を探すミツバチのようにゴーフル屋に引き寄せられます。

入っていなかった真珠砂糖!

ベルギーの至るところで売られているゴーフルには必ず真珠砂糖が入っています。だからこそ、ユニークで美味しいのである(フムフムなるほど)。ところが、ところがです、歴史をひもといてみれば、13世紀に生まれたゴーフルには真珠砂糖は入っていなかったのです!

ゴーフルの起源は古く、古代ギリシャやエジプトまで遡ります。当時は粉と水で練った粥状のものを、熱い石の上で焼き食料としていました。13世紀になると鍛冶業が発達。鍛冶屋が長い柄をつけた鉄の型を考えました。長方形の2枚の鉄板の間に粥を流し、上下をひっくり返して焼くという発明は、時間の節約という意味で画期的なものでした。小麦粉以外にもそば粉や栗粉、ドングリ粉そしてジャガイモの卸したものまで使われました。18世紀に入り、卵やミルク、蜂蜜、シナモンなどが加えられ、ゴーフルが甘い嗜好品になりました。

リエージュ・ゴーフル保存協会

リエージュにリエージュ・ゴーフル保存協会があり、会長ご夫妻にお話を伺いました。「真珠砂糖入りのゴーフルがリエージュ・ゴーフルと定着してしまった現在ですが、少し残念に思っています。なぜなら昔からリエージュで作っていたゴーフルには真珠砂糖ではなく、シナモンを入れていたからです。そしてその理由にも歴史的背景があるのです」

リエージュはフランク王国分裂以来、皇子司教が支配する司教国となりフランス革命まで続きました。皇子司教はバチカンの法王に次ぐといわれたほどの権力を持っていました。“聖職者はうまいもの好き”といわれるように、歴代の皇子司教は大変な美食家だったため、司教宮殿の台所には世界中の珍味が集まり、当時は高価な香辛料だったシナモンも豊富にありました。その影響で、昔からリエージュ地方ではシナモンを何にでも使い、おのずからゴーフルにもたくさんのシナモンを入れたわけです。

真珠砂糖がシナモンにとって代わった理由

それは単なるコストの問題でした。ベルギーは昔から砂糖大根から良質の砂糖を生産、輸出していました。ゴーフルがデザートとして民間でも食べられるようになると、高価なシナモンの代わりに安価な砂糖を入れることが考えられました。

では何故グラニュー糖ではなく真珠砂糖だったのでしょう? この地方では昔からクラミック(真珠砂糖と乾しブドウ入り)とクラックラン(真珠砂糖のみ)と呼ばれるパンがありました。ですからゴーフルにも真珠砂糖を使ったということです。食感にもこだわるグルメなリエージュ人なのでしょう。というわけで、真珠砂糖入りのゴーフルの歴史はまだ浅いのです。

まだある名物

年に2回あるリエージュの移動遊園地で、必ず長蛇の列ができる屋台があります。リエージュのもう一つの名物、ガレット・ラックモンを売る店です。これはラックモンさんが考えだした、そば粉で作った大きな楕円形の薄いガレットのこと。バター、卵、イースト、ミルク、シナモンスティック(またはシナモン粉)、塩で作ります。

作り方は簡単。卵大に丸めた生地をめん棒でさっと延ばし、鉄板で焼きます。焼きあがった熱々のガレットの厚みに縦にナイフを入れ生地を半分に開き、中に特製のシロップを塗りさっと閉じます。作った端から飛ぶように売れるので、職人の手は休むことがありません。一枚が1,30ユーロ、6枚で 6,50ユーロのガレット。大体の人が6枚以上を買っていくには驚きました。

このガレットの美味しさの秘密はリエージュ・シロップにあります。梨とリンゴを銅釜で12時間も煮てピューレを作り、それを4時間かけてゆっくりと濾しさらに煮詰めて作る、蜂蜜より少し硬めの一種のジャムです。8キロの果物からわずか1キロのシロップしかできません。添加物なし、また果糖のみなので糖尿病の人でも食べられるという有難さ。

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シナモン入りのゴーフルとガレットの味

保存協会の会長がシナモン入りのゴーフルを焼いてくれました。最初の一口…。柔らかい食感なので、真珠砂糖入りに慣れた舌には何となく頼りなく…。

でも甘くとろける生地とシナモン独特の上品で繊細な美味しさのハーモニーに、シナモンの価値を再認識。司教が好んだ意味が分かったような気がしました。

ベルギー人の好きな菓子とパン

「ベルギーの郷土菓子」シリーズ最後は、ベルギー人の好きな菓子とパンのご紹介。これらはパティスリーやパン屋なら必ず置いてある、いわば彼らの食生活になくてはならないものです。

多くの文化からの良いとこ取り?

ベルギーという国は、1830年オランダから独立するまで、中世はブルゴーニュ公国、その後はフランスやスペイン、オーストリアに支配されていました。この過酷ともいえる歴史的背景も、食生活についていえばベルギー人に幸をもたらしたと思います。彼らには、外国から持ち込まれた珍しい食材を受け入れる柔軟さと、それを応用する器用さがありました。

日曜の朝はピストレ

ピストルのことをフランス語で「ピストレ」といいますが、ベルギーには、拳銃と同じ発音をする「ピストレ=pistolet」という国民的なパンがあります。カリッと香ばしい皮とふんわりした中身の、直径10センチの丸いパンです。材料は小麦粉、イースト、水と塩。他のパンより発酵時間を長くして、焼く前後に蒸気を与えます。

このピストレ、ベルギー人の週末の朝食には絶対欠かせません。しかも食べ方が変わっています。パンの表面に軽く入ったわれ目に沿って二つに割り、中身の白いフワフワの部分を取り除きます。パンの皮に目玉焼きの黄身をつけて食べたり、ハムやチーズを挟むか、ジャムや塩入りのバターをぬります。では、取り出した中身をどうするか? 食べません! 何と捨ててしまうのです。中身だって代金に含まれているのだし、大体もったいないとは思いませんか?

パンを買うのは男の仕事

週末のピストレ買いはなぜか男性の仕事。早起きしてパン屋に直行します。長い順番待ちも慣れたもの。でも乳母車に子供を乗せて行列する人もいるのには“そこまでするかねェ~”と、さすがの私も驚きです。焼きたてというのが必須条件とか。

パンを買うために早起きするのをどう思うか聞くと、「親父もそうだったし、べつに嫌とは思わない」、「焼きたてのパンを買うのは家庭サービス」、「家内が起きないので仕方なく」等々。総じて男女とも当たり前と思っています。日本の男女は「考えたこともなかった」、「頼んでも行かないと思う」。この差って食文化と意識の違いですよね。

肉屋ではピストレを昼のサンドイッチとして売っています。ローストビーフやソーセージを挟んだり、タルタルステーキ、小エビのマヨネーズ和え、白チーズに赤カブの薄切りを載せたものなど、中身はいろいろあります。

★クラミックとクラックラン
両方ともリエージュ地方が元祖といわれていますが、全国的に人気のある菓子パンです。パン生地に乾しブドウを入れたものがクラミック(cramique)。クラックラン(craquelin)は真珠砂糖入りです。トーストにして塩入りバターをたっぷり塗り、コーヒーと共に食べるのがベルギー人の好きな食べ方。

お菓子の御三家

ベルギー人はお菓子の名前をつける名人だといつも感心します。メルヴェイユは「すばらしい、感嘆すべきな」、ミゼラーブルとは「哀れな、みじめな」という意味。コーヒーを使うジャヴァネは「ジャワの人」。それにしてもお菓子に「哀れな」と命名するとは…。ある人いわく「あまりの美味しさに最後の一口を食べたら、次に食べる時まで待つ間が哀れだから」「美味しいので食べ過ぎて、その後哀れな姿になるから」。

これらの菓子はいつ頃作られたかも、どこで誰が作りだしたかも定かではありません。ベルギー人にいわせると“生まれた時から食べていた”そうです

★メルヴェイユ(merveilleux)
メルヴェイユ(merveilleux)

山型の2つのメレンゲの間と周りにホイップクリームをぬり、削ったチョコレートで飾る。

★ミゼラーブル(misérable)
ミゼラーブル  (misérable)

ミゼラーブル  (misérable)
アーモンドのジェノワーズ生地の間に軽く仕上げたバタークリームを挟み、粉砂糖で飾る。

★ジャヴァネ(javanais)
ジャヴァネ(javanais)

ジャヴァネ(javanais)

アーモンドのジェノワーズ生地にコーヒー風味のバタークリームを挟む。チョコレートのグラサージ。

最近では菓子や料理の世界で「伝統を見直そう」が合言葉のようで、有名シェフもパティシエも、郷土料理や伝統菓子に力をいれています。新しい味や創作菓子もよいのですが、子どもの頃に食べたお袋の味は、幾つになっても忘れないもの。今回の菓子とパンは、いずれもシンプルな材料で作られていますが、飽きがこなく、何度でも食べたいと思う優しさに溢れています。これがベルギー人の食生活の基本。まさに彼らの心の根っこだと思います。

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