ベルギーの郷土菓子 21 最終回
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知っていますか? 製菓原材料
宮崎真紀

(米のタルト)
 牛がのんびりと草を食む、なだらかな緑の丘の起伏が続くエルブ高原。雨の多い気候とこの地方特有の粘土石灰質の土壌が、湿気を程よく含んだ上質の牧草を成長させます。ここで放牧されている牛の濃厚なミルクで作るバターやチーズ。香り高い独特の風味を持つことで有名です。またエルブ高原を含むワロニー地方は古生代、中生代、第三紀といった古い地質で成り立つため、マイルドで癖のないミネラルウォーターの代表である「スパ」や「ショーフォンテーヌ」などの泉水が豊富に湧き出ます。美味しいミルクとバターそして水のトリオがタルト・オ・リを生み出しました。


ヴェスドル川の娘
 タルト・オ・リは水の街ヴェルヴィエの郷土菓子です。この街は深い渓谷を流れて来るヴェスドル川の流域にあり、地の利を利用したラシャ工業の街として10世紀以来発展しました。清流で名高いこの川の水と職人の高度な手仕事は、イギリスからの羊毛を柔らかく艶のある極上の糸に仕上げました。この糸で作られたラシャ製品は貴族の垂涎の的となり、17世紀にはヨーロッパ中へ輸出され、イギリス毛織物産業の好敵手となったほどでした。

司教様は美味しいもの好き
 ヴェルヴィエは、ローマ法王が直接任命した皇子(大公)司教が治めるリエージュ皇子司教領に属していました。宗教的には聖職者であり政治的には大公という立場の皇子司教の権威がどれほど強かったかは、リエージュのサン・ランベール大聖堂がパリのノートルダム大聖堂よりはるかに大きく立派だったことで容易に推測できます。この体制が18世紀のフランス革命まで続きました。このことは、ヨーロッパ中が戦争に明け暮れるなか、治外法権的な司教領は長いあいだ安泰な政治を行っていたことを意味します。
 1550年から約50年間、リエージュ公国の3人の皇子司教たちに仕えた料理長ランスロ・ド・カストーが1604年に発表した料理本によると、ルネッサンス当時の皇子司教は新しもの好きで、ワインなども10ヶ国から取り寄せ飲んでいたようです。中世の食物とルネッサンス時代のそれとの大きな違いは、新しい食材がヨーロッパ中から手に入ったことと、イタリア料理の影響が強かったことでしょう。例えば、1557年、新しく皇子司教に就任したロベール・ド・ベルグ公の催した豪華な饗宴には、キャビアやトリュフ、サギのパテ、鶴や白鳥のロースト、魚や牡蠣などの魚介類が供され、これらは当時の「ヌーヴェル・キュイジーヌ」だったのです。また、特権階級の日常の食卓には、ミントなどの香草を利かせたパスタにパルメザンチーズを振りかけたもの、パイ皮を使った料理、メレンゲの冷菓など、まさに現代料理そのものが並んでいました。料理長がこの皇子司教のために創ったのがタルト・オ・リでした。

米のタルトはヌーヴェル・キュイジーヌ
 小麦から作るパンが主食の国でどうして米のタルトが出来たのでしょう? 交通手段が徒歩や馬という時代でも修道院間の交流は驚くほど密なうえに、リエージュは大聖堂をもつ司教領。ローマ法王の使者が頻繁に訪れたことは想像に難くありません。知識欲豊かな僧によりイタリアの米が紹介され、イタリア料理好きな主人のために、料理長が新食材の米と地元のミルクとバターを使い新しいデザートを考案したのです。

タルト・オ・リの作り方
 ベルギーの「ルレ・デセール」最年少のメンバーであるジョン=フィリップ・ダルシ氏はエルブ高原の出身。現在はヴェルヴィエにパティスリー/ショコラトリー及びティールームを持つ気鋭のパティシエです。その彼が愛してやまないのがタルト・オ・リとメルヴェイユ。食べるのが惜しいような創作パティスリーを作る一方、子供の頃の懐かしい郷土菓子の伝承に力を入れています。
 エルブ高原の酪農家から届いた新鮮な牛乳にシナモンを入れ沸騰させ、二重の鍋に移し米、バニラを入れ湯煎にかけて約1時間半弱火で煮ます。米が柔らかくなったら砂糖を合わせ、別の容器に移し替え翌日まで一晩寝かせます。焼く直前米に卵を混ぜ合わせ、パイ生地を敷いた台に3センチの厚さで流し込み、溶き卵で艶をつけて270度の高温で約35分焼きます。彼に言わせると、米の煮方さえ注意すれば何も難しいことはないシンプルな菓子だそうです。でもシンプルなだけに美味しく作るのは難しく、食材の質と作り手の経験が問われます。

至福の瞬間
 焼きたてのタルトの表面はプックリとふくれ、「タルトの花」と呼ばれる表面にできる茶色の模様が美味しそう。厚い米の層をじっくり焼かないとこの花は咲かず、花の咲かないものは本物ではありません。冷ましたパイを切ると、熟成したカマンベールのようにトロ〜ッと生地が流れ出ます。ほのかなバニラの風味、濃厚な牛乳のうまみを吸った米が口の中でとろけます。米粒の形を残しつつ、しかもビロードのごとく柔らかい食感の仕上りに、さすがルレ・デセールと唸りました。